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【熱さと砂埃の国、マリ】 | ||||||||||||
第23回アフリカ・サッカー選手権大会3週間(1月18日〜2月10日)マリの取材、滞在日記。 ホテルテネシー このホテルは、バマコ飛行場から携帯で連絡して取れたホテル。一泊50000cfa(約8000円)と高い。真夜中に飛行が遅れて到着。仲間の人たちに荷物2つが到着していない。ごった返すが、ナイジェリアのような怖さの雰囲気は皆無だ。肌で感じる微妙な空気はかなり正確だ。
設備はプールだけ、汚くて泳ぐ気がしない。支払いが1週間に一度。カードは使えないので現金払い。良かったのは、鍵を持って出ると、部屋に絶対に誰も入らない。 貴史が部屋の鍵を掛けたと思ったが、ダブルチェックをしなかった。1日中外出して部屋に戻ると、鍵が完全にかからずドアーが開いていた。それでもなにも無くなっていない。ここではお釣りの誤魔化しもなし。夜になると金額の判断が難しい紙幣だが、人を騙すようなことはしない。ホテルの部屋は2階の大きなテラス付。外から侵入するのは容易だ。 金曜日の夜、高級ホテルのプールサイドで、スポ−ツ大臣列席のもとパーテイが開かれた。大きな豚の丸焼き、羊の豊富な食べ物、酒類も沢山に出てきた。音楽入りで楽しかった。大臣には誰も近寄らないが、パンダ並に次々に一緒に写真に収まる。 選択すると赤い泥水になる。Tシャツを洗っても室内に吊るすだけで簡単に乾く。一滴落ちない、肌の渇き。のどの渇きが早い。 ホテルファックスを受け取ると、1枚につき500チャージする。 マリの首都バマコの街 マリの首都バマコは、西アフリカ最大のニジェール河が街を南北に分ける。少なからず、北に大統領官邸が高い山の上にあり、官庁、巨大なマルシェがある。巨大なマルシェ(市場)はバマコの中心地ともいえる。マルシェを中心に街が発達したようだ。そこには強烈な生命力を持つエネルギーが集中している。狭い露地に無秩序に店が乱立。その中を人、車が動く。アラブの国のスークに似た雰囲気がある。 排気、砂埃、主要道路を一歩横に入ると、赤土の凸凹、舗装されていないため砂塵が立つ。足の着地に注意をしないと捻挫しそうだ。 外を数歩くだけで、汗についた砂埃でたちまち顔がざらざら、喉に砂を感ずる。道路を歩くと、車、バイク、人並みを分け、排気ガスを吸う。マスクをかけている人もいる。強烈な紫外線、砂埃を浴びてからだの隅々に砂が侵入してくる。 黄色い流しのオンボロタクシーを捕まえる。外国人は何人乗っても、街の中なら一律1000cfa(約200円)。もちろんタクシーの計器類は一切動かない。あるとき、途中でガス欠が起きたが、辻で一瓶ガソリンを買ってきて間に併せる。ここでガソリンを満タンにする人は金持ちだけ。 街に慣れてくると、乗車前に値段交渉せず乗り込む。目的地に到着してから黙って1000cfa出せば文句は言われない。これは外人値段。現地の人たちは、一人300で相乗りだ。時には蚊の大群が相乗りしているのもある。ナイジェリアの北部には、小さなバイクの後方に乗るタクシーが安く、気軽に乗れたのを思い出す。 タクシーは、多分はスクラップ寸前のものが多い。なんとか動くのがエンジン、ブレーキ、ドアーがまともに閉まるが、しばし、開けるのは難しい。ワイパー、窓ガラスはない。一度エンジンが掛からなくなり、日本のコードを併せてスタートした。 市内の一箇所しかないキャッシュカードが使える銀行はピン札が出る。たちまち紙幣は土の赤色になる。困ることに500と1000札が少ないらしい。ほとんど流通できないようなボロボロ紙幣がセロテープでベタベタ張られている。10、50、100とかのコインが少なくお釣りがこない。 マリは136ヶ国の中で126番目に貧しい最貧国のひとつか。一人頭年間収入は250ドル。2泊のホテル代で、その半分が飛んでしまう。この国を挙げてスポーツ大会、マリが久しぶりに予選突破。これはサリフ・ケイタ以来の快挙。
アフリカ人の姿勢、スタイルの良いこと。背筋をピンと伸ばし、大股で歩く姿は世界一。日本人の歩く姿は最低。膝を真直ぐ伸ばして歩けない。スカートをはいた極端に内股の脚形。シューズの踵を潰してはく若者、“ズルタン!ズルタン!”シューズを引きずる、“パカン!パカン!”凄い音を立てて歩く人、日本人は音の汚染を撒き散らす。そんなところからも、今後スポーツ選手が出てくることの望みは薄い。 Tokyo Photo のラボがある。バマコ1。トシロウ・オバタ20数年ここに住む。 レストラン ある日、サッカー試合の取材がない午前中、街の中のマーケット内を散歩。ちょうど昼飯時になった。人に美味いレストランを聞くと、教えてくれた。そのレストランは、中央郵便局の側に見つかったセネガルの女将が経営する。アフリカで外国人が宿泊するホテルの食事は、多くの場合、西洋料理の紛い物で、まずくて、滅法な値段がするので食べる気がしない。 宿泊したホテルの食事が、朝飯が4500cfa(約700円)、夕食が平均3500以上、水が1500、ビールが1500、コーラが1000とべらぼうに高い。 13時過ぎるころ、すでにセネガルレストランは満員。重そうな巨体の女将がチャーターしたミニバスで登場。どこかで作った料理を給事兼アシスタント、若い衆達が手分けしてテキパキ運び込む。 アルミで作られた巨大なたらいサイズの器に詰められた飯、スパイスの効いた強い匂いの煮込んだ肉、野菜類。準備したもろもろの食べ物を運んでくる。男でも重いようなものを、若い巨体の女給さんは軽々持ち上げる。アフリカの女性は働き者。 この間約30分、空腹を抱えて待つ時間はきついが、それでも数人の人たちの働きを見ているのは飽きない。巨体を揺すり、まごまごしていると甲高い声で怒鳴りつける。女将は慣れた手つき指示、カウンターの向こう側の所定位置に腰掛ける。ようやく飯にありつける。 女将がやおら座り込むと、メタル食器に次々と赤い色のライスを盛り付け女給に渡す。セネガルの人たちは、ライスを好んで食べる。そのライスの上に、女給がオーダーによって骨付きのニワトリ、牛肉、羊肉に、野菜を添えて盛る。 食べきれないほどの大盛り!こってりと椰子油で煮込んだ絶妙な味だ。ここにはブロイラーのような柔の鶏はいない。味の良い歯応えのある野生に最も近い「地鶏」だ。この値段が1500cfa!!クスクスだけが2500と安くて美味い!! セネガルの食事は美味いのに定評がある。なんども訪れたセネガルで食べたものは美味かった。しかし、どういうわけか、ピーナッツバターをたっぷり入れた“マフィン”がここにないのは残念だ。 不思議なことにこのレストランには、栓抜きがひとつもない。あっても盗まれてしまうのかもしれないが、飲み物を頼むと女の人が歯で栓を抜いてくれる。そして、栓をそっと元に戻してビンを渡してくれる。ここの女給さんは歯が丈夫でなければ務まらない。 天井から扇風機が数台回る。カラフルな村の風景が壁いっぱいに描いてある。客は手で食べる人、ナイフ、フォークを使う人とさまざまだ。骨はテーブルに置くか床に落とす。 客の残飯は、客が食べているのを物欲しげに店外で見ているこじきの子供に渡る。シュールは情景だ。 アフリカ選手権でセネガルが決勝進出したので、女将も機嫌よくサーヴィスしてくれた。へつらいもなく、数日行かないと怒られた。 イタリアレストランは、日本でも滅多に見つからないよう高級店。白のテーブルクロス、ナプキン、ナイフ、フォークなど、しっかり決めている。食器から総てイタリアから持ち込んだのだろう。ピッザを本格的な土釜で焼いている。イタリヤより上手い。サラダ、ピッツ、ビール、コーヒーを飲んだ価格がフランス並だった。余程人件費が安いのだろうか?ウエイターの大半が手持ち無沙汰で立っている。 マリ・ハイウエーを行く ある日、東のセゴウ市で行われる試合を取材することになった。当初、主催者がバスを報道陣に出す予定だったが、突然前触れもなく中止になった。距離は片道230km。タクシーの運転手つき、ガソリン込みで1日75000cfa(約13000円)だった。これを3等分した。所要時間2時間半。バマコを出ると、真直ぐなサヴァンナ道路を130kmですっ飛ばす。 これが急行バスでは、わずか4000cfa。遅いだろうと思ったバスが、案外に早くタクシーと1時間は違わなかった。 ニジェール河の水源地は、ギニアの奥深い熱帯雨林から。やがて、バマコあたりの川幅は広く、満々と水をたたえて大河をなす。皮肉なことに、川岸から一歩離れると乾燥した大地だ。ニジェールはサハラ砂漠か半砂漠のマリ、ニジェール、ナイジェリアを悠々と流れて海に入る。探検家マンゴーパークが、この川に沿って西アフリカの奥地探検をした。
村の中に入って子供達のサッカーの写真を撮った。 運ちゃんは敬虔なモスリム、午後になるとお祈りのために車をとめてよいか聞いてくる。その間、乗客のわれわれは足腰を伸ばす。夜は空に美しい星が見える。 カメルーンの試合取材のため、シカソまで車を借りて飛ばす。375kmを4時間半。途中で"ムトン"を食べる。3000で4人腹いっぱい食べる。アビジャンに行く大型トラックが多いが、比較的交通量が少なく安心した。 バマコの焼き鳥や、中華料理屋 滞在していたホテルの側に、夜8時過ぎから開店する野店焼き鳥やがある。そこになんども通った。薄暗い裸電球がひとつだけついている。プラステックの白いテーブル、イス、TVもある。 綺麗な女将が子供を背中にくくりつけてお守りをしながら開店準備。子供が寝ると家に置いてくる。空を仰ぐと、満月が美しい。腰を下ろすと、ビールと一緒に男が蚊除けのクリームを置く。ここのビールは700、焼き鳥1本100、鶏半分が1500という安さ。 ここの焼き鳥はあらかじめマリネーしてあり、それを串に刺して炭火で焼く。これがまた美味い!!焼き鳥5本でビール1本飲んでから、半分の鶏、ポンフリを食べる。 ここの常連か女将の友達か、一見して混血の女の人を毎回見かける。ある夜、一人の客と柳著にロシア語でしゃべりだした。場違いなロシア語の音声が、奇妙に響く。 女将に聞くと、彼女の父親はロシア人と返事がきた。トラオレ独裁社会主義政権は68年から91年まで続いた。当時、東欧諸国、中国からも大勢の人たちがここに滞在した。マリの若者が東欧、中国で学んだ。ソ連崩壊に続いて、マリの独裁政権も消えた。その名残がそんな形で残されているのだ。 中央郵便局の裏にある中国飯屋のチャーハンが美味いし、量もたっぷりある。これが1000cfa。しかし、味の変化が乏しいのは、西アフリカのレストラン総てがMaggiの進出で毒され、味統一されてしまったからだ。 ホテル近くの中国四川飯店“パンダ”、ここの中国人はフランス語が良くできない。聞くとマリに住んでいる中国人は、中国政府から派遣されてきた人たちが、革命後も帰国せずに居続けているらしい。 カイのチュニジア戦取材 ワールドカップで日本第3戦目はチュニジアと対戦する。わたしの予想は、日本はベルギー、ロシアに、地元の利を生かしても、湿気の高い気候の中での試合でも、良くて引き分けであろう。日本が勝てる相手はチュニジア戦だけだろうが、1次予選突破が決まり意味のない消化試合に過ぎない。 そのチュニジア線を感染するために、今までアフリカ選手権に全く興味のなかった日本人記者、カメラマンが取材にきた。朝日、共同など、まず通訳、コ−デイネーターとやらを雇うことから始める。最近の若い人たちは言葉を使える人たちが多いが、サッカー知識もない人たちを派遣する。 それでもなんとか仕事を済ませる程度の報道でいいのだろう。 マリ航空が潰れたらしい。国内を飛んでいるのはユーゴ、われわれが乗ったのはアルメニア航空が新設した“アフリカンエアーライン”。ロシア製の小型機34人でカヤに飛んだ。空港で切符を購入、124000cfa。3人のアルメニア人がコックピットに入ると、目覚まし時計のような音がなりエンジンが始動。離陸前のセキュリテイ、安全ベルトなどの確認もなし。 バマコからセネガルの国境に近いカヤの街までは道路が悪く、距離も700km近くある。38年前、やはりバマコから汽車に揺られてセネガルに入国した。飛行は約40分で着いた。なぜかぽつんと作ったカヤのダグダグ飛行場周辺にバウバウの木が多い。選手を運ぶセネガルの小型機を含む、おおよそ8機ほど止まっている。空から見ると、ニジェル−河の側の向こう側が市内だ。 スタジアム周辺、アフリカの取材陣 世界でも最貧国のマリがアフリカ選手権を開催できたのも、ひとつは、革命後最も大きな国威を掛けたイベントだ。スタジオは総て中国人が建設。おなじデザイン。プレスセンター用になっている“パレ・ド・コングレ”も中国人が独裁政権体制のとき建設した。新しいスタジアムは、ライトも満遍なく点灯、少なくともイングランドよりましで明るい。
白人植民地主義者的な態度、思考の持ち主のトルシエが、チュニジア偵察に送り込んだスパイがいた。コートジボアール時代に一緒に仕事をしたレバノン人の男。トルシエはこのような情報収集に日本人を全く信用していないだろう。それはある程度正しいだろうが、チュニジアに見るべきのものはなかった。 日本人記者旅券、財布、カメラがミックスゾーンで盗まれる。ナイジェリアの大勢の記者に囲まれた時、田村のズボンに手を入れられて盗まれたらしい。旅券は仏鍵にスタジアムの中から出てきた。ここには日本大使館がないので、発行には手間が掛かるだろう。 記者と言っても金がない人もいる。ガーナからきた顔見知りのサムは、4日間バスを乗り継いできた。地理感覚が根本的に、われわれと大きく違う。 CANコミュニケーションはフランステレコムが主体。ラジオ放送のためこれは非常に重要なこと。BBCラジオは、マーテインががんばっているが、今回からTVが始めて放映。日本もスカイパーフェクトが全試合放映とか。また、アメリカに住む多くのアフリカ人のためにアメリカにも放映。金が沢山入ったのか、黄金の新しいカップになった。しかし、なんだかワールドカップに似てきた。 クフォーは試合前にガーナキャンプを追われる。ジャージーに文句中をつけ、いろんなことで問題を起こす。統制の乱れを心配して、スポーツ大臣が怒って追い出した。 ここでもワールドカップの対戦相手についての話が出る。ナイジェリア対イングランド戦は、元支配者体被支配者の因縁の対決。友人のオノチエが闘志を燃やしている。スエーデンに破れても、イングランドに負けなければ最高だとか。 ナイジェリア、ガーナ記者集団が、フランス語だけで英語の通訳が悪いと怒った。前回大会ガーナ、ナイジェリアでも同じこと。フランス語通訳は極端に少なかったのを忘れていた。
セネガル人が決勝戦前に大挙してバマコに入ってきた。マリとセネガルは兄弟のようなものだが、ことサッカー試合になるとまったく別。マリは通常セネガルを応援しない。決勝戦はどうなるかみもの。 珍しくも、ある知人のスエーデン人が取材に来ていた。スエーデンはワールドカップでナイジェリアと同組のため。その記者が韓国で抽選会の終わったあと、スエーデンチームが試合場になる会場、街の紹介取材に歩いた。ところが、ある浦和のレストランでかれにビールを売るのを拒否した店主がいたと言う。外国人は総てフーリガンと見られたのだろう、外国人にはビールを占いと拒否された。早くもフーリガン=外国人の偏見ができてしまってパニックになった。良くある日本人の偏見人種差別。 情報料が世界一と誇る日本だが、くだらない必要もないことも含めて情報量が多いと自慢するが、情報がないと落ち着かないのは劣等感そのもの。溢れるような情報があっても、その情報を的確に判断する知識、力を持ち合わせていなければ意味がない。とんでもないWCになるだろう。 WCを日本、韓国で行うことの異論は、両国とも、世界中のサッカーファンを喜ばせることができる土壌がない。スタジアムなどのハードは資金、技術、インフラストラクチュアができても、ソフト、人材を作ることができないからだ。 アフリカ人の忍対力は違う。マリの史上最高のスポーツ選手サリフ・ケイタ(56才)を迎えに行く。その後、ルアルア(コンゴ生まれ、3才でロンドンに移民、ニューキャッスルでプレー)をホテルに迎えに行くが、連絡が不十分なのでサリフを車の中で20分以上待たせる。そんな時も平気で待たせる。 ルアルアがアフリカに来たのは、ロンドンに移民してから初めて。人は親切で、やはり「オレはアフリカ人だ!」と自分のルーツを再確認したと言う。街角でプレーする子供達は、素晴らしい才能がある。彼も勉強が最優先、大学生で18歳のころ本格的にサッカーを始めたと言う逸材。イングランド国籍を取るように言われたが、「オレはコンゴ生まれのアフリカ人。コンゴのユニフォームを着てプレーするのが夢だった」と。 ケイタは1946年12月6日バマコ生まれる。娘二人の父親。、一人はアメリカ在住。一人はホテルデイレクター。”男の子を作るのは上手くない"と言って笑わせる。サッカーを始めたのは、やはりアフリカのどの子供と同じように5から6歳ごろから。サントラ・フォーマションテクニカルスクールCABに通いながら、レアル・ド・バマコのマリ・リーグでプレー。 オルリー飛行場にマリから始めてパリに到着。タクシーでサンテイテイエンヌまで飛ばす。クラブがタクシー料金を払ったが、その後の大活躍で高いタクシー料金のエピソードは帳消しになった。サンテイエヌ(67−72年)、3回リーグ優勝、2回フレンチカップ優勝、アフリカ最初のゴールデンブーツ賞授賞。72−73年マルセーユ。3年契約を1年で止めた理由は、あくどい人種差別が原因。 当時はOMに、外国人枠が二人、スエーデン人のマグヌーセンとユーゴスラヴィア選手がいた。マグヌーセンは好きだったが、クラブがフランス国籍を取るように強制したが、拒否したために一人がベンチに座る。右翼グループが嫌がらせ、試合中の嫌がらせが続き6カ月で嫌になる。脅迫電話が続き、試合後はマリ人がボデイイガードを駆ってして守ってくれた。 73〜76年までヴァレンシア、76年〜78年スポルテイング、ポルトガルでプレーするのは楽しかった。79年3月、ボストンノニューイングランド・テイーメントに移籍。3年間の契約だったが、1年後にチームフランチャイズがフロリダに移る。ただし、娘のフランス学校がなかったため引退。そのままボストンに滞在。英語学校に2年間、その後サーフォック大学でビジネス学科を卒業、マリに86年帰国。 3つのアイデア、不動産、ホテル、投資の仕事を始めた。91年3月に革命独裁社会主義が崩壊。新政府の閣僚待遇で招聘され、政府のPRのために尽くす。マリ激動期に力を貸すことは誇りだと言う。政治には全く興味なし。継続を辞退して、ホテル建設、銀行頭取を2年間勤務、94年からサッカーアカデミーに尽くす。 マリ現代表チームが強くなったのは、サリフ・ケイタ・アカデミー(1994年創立)出身者が主力の8人。最初は400人、現在は200人。道路上で上手くなっても将来性はないと言う。両親を口説いてもプレーしたいような、中途半端の考え方の子供は伸びがない。 ナイジェリア代表が、準決勝戦前に揉めている。選手が準決勝戦前にリターンチケットを要求している。くれなければ試合をボイコットをする。今まで何度も自費で帰っていたようなケースがあったとか。
アフリカ選手権とは、3Sと解く。サッカー、セックス、スキャンダル。 サッカーは熱狂的だ。することも単調な社会だが、朝から晩までサッカー談義に明け暮れる。TV番組の再々放映なんぞはざらにある。独裁政権崩壊後、自由謳歌できてから初めての国をあげてのお祭り。若い選手がナイジェリアユ−ス世界選手権大会で、日本に続いて3位になった選手が主体で勝ち進んできた。 マリがナイジェリアに敗戦が決まった夜、あの8万の大観衆がお通夜のように数kmの帰り道を黙って砂埃を上げて帰途につく。あれで勝ったら、一体どんな凶器の沙汰になるだろうか想像もできない。 その日、朝からサッカー場に詰め掛け、35の炎天下に座って待機した観衆。沢山の人たちが脱水状態で病院に担ぎ込まれた。日ごろおとなしいと言われるマリの人達も、報道席になんでもない人達が座り込む。どこかで喧嘩が始まった。スタジアムのテンションが極度に高まる。 ナイジェリア人取材記者が警官に殴られる。ここの警官は93年3月23日の革命まで、独裁者の命令のまま、市民を圧迫しつづけた手先だけにチャージをかけるときはめちゃくちゃにやる。統制が普通の警察より訓練ができているのはその名残だ。彼らの組織立った動き、見につけているユニフォーム、道具などもはるかに立派。アフリカの人たちはナンでもないとき「モンフレー」(兄弟よ)と言って親しくやるが、ちょっとでも揉めると、徹底的に暴力を使って鎮圧する。 アフリカの人は、ムスリムの国でも熱い血が騒ぐ。夜10時ごろになるとタクシーで"夜のお姉さん“がタクシーでホテルに乗り付ける。選手村のホテルは、通常は2階以上に上がってゆけないが、現実には誰もコントロールできない。早朝女性がぞろぞろお帰り。特にナイジェリア選手が売春婦を多く買ったとか。それまでそんなことを言わないナイジェリアジャーナリストが、敗戦を契機に不満をぶちまける。 高級住宅地に大会取材陣が宿泊できる、マリ自慢の"ヴィラージ"がる。しかし、これは遠い。国の"ミエ"だが、そんなものと対照的なのが現実。ショウオフするところ。大会が終わるとこれを売りに出すだろうが、一体何人の人たちが購入で切るだろうか?これもマリのイメージを高めるのに役立つか。 |
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