【2時間15分台を予言するマラソンの新女王】
高橋尚子が女子マラソン史上初,サブ20分の世界最高記録を樹立した。しかし,それはわずか1週間後,キャサリン・デレバ(ケニア,29歳)よって1分近く短縮された。女子マラソン究極の壁と言われた“2時間20分”は,「記録は破られるため,破るために存在する」ものに他ならないことを証明した。人間の限りない記録への挑戦,歴史を繰り返す通過点に過ぎない。キャサリンは,プロテスタントの敬虔な信者。レース中,イザイア書の一節を暗誦するという。人知を越えた神の加護が世界最高の原動力になった。しかし彼女は,自分の潜在能力ならさらに上の記録を出せると予測する。
キャサリンと2歳下の夫,アンソニー・マイナを,ケニアの首都・ナイロビの自宅,そこからから北へ150km離れた2400mの高地にある2人の故郷ニエリで4日間,密着取材した。

◎文&写真/望月次朗(Agence Shot)

ジェーンと一緒のデレバ

本国では無名の世界記録保持者と高橋尚子は好対照


高橋尚子が動くと日本のメディア200人近くが動く。この数はブラジルが世界に誇る国技,サッカー代表に同行する取材人と匹敵する。外国ではそれほど注目されないマラソンに,高橋が出場したベルリンでは日本取材陣が殺到して現地の人達を驚かせた。高橋は「五輪優勝」,「世界最高記録樹立」と,完璧なかたちで頂点に達した。女子マラソンで過去にこの2冠≠成し遂げているのはベノイトのみで,「鉄の女」と呼ばれたワイツ,クリチャンセン,モタ,ロルーペは果たせなかった。高橋は2人目の2冠≠ナはあるが,83年4月のボストンで世界最高,84年8月のロサンゼルス五輪で優勝したベノイトより短期間で達成している。高橋の帰国直後の日常生活は,殺到するマスコミ取材の対応,イベント・講演への出演など,分刻みのスケジュールが設定されていただろう。彼女は次回アテネ五輪まで20億円を稼ぎ出すと言われている。いま日本で最も熱いスポーツ選手である。一方,キャサリン・デレバは「長距離王国ケニア」の女子選手。日本の誇る陸上界の「プリンセス・高橋尚子」とは超対極な時間と空間を生きる一児の母親だ。ケイノ(68年メキシコ五輪1500m優勝,72年ミュンヘン五輪3000mSC優勝)から始まり,世界陸上史に燦然と輝く歴史を築いてきた大物男子選手がゴロゴロしているケニア。キャサリンが女子マラソンとてつもない世界最高記録を樹立したものの,知名度は国内ではほとんどないのが現状である。シカゴの後,ヨーロッパのロードレースを経て10月中旬に母国へ戻ったが,ケニア陸連,報道陣らの歓迎すらない,ひっそりと帰国するただの人だった。

ある日の早朝5時45分,ヒヤッとした高地の冷気が気持ち良い。薄紙を剥がすようにゆっくり東の空が明るくなってくる。ホテル前で客を待機していた,一見にして使い古したオンボロタクシーを駆った。選択肢はない。走り出した瞬間,穴が開いたマフラーから出る静寂の空気を破るような騒音,排気ガスで頭が痛くなった。それでも心配した約束の時間に十分間に合った。高台から見るケニアの首都・ナイロビは,一般的なアフリカのイメージとは大きく異なる高層ビルが立ち並ぶ。その市内南の郊外,ウィルソン空港のそばに「ブルー・スカイ・エステート」と呼ばれる中産階級以上の人が住む2階建ての住宅地がある。
しばらくすると,アンソニー(今年5月から,ナイロビの中心地に7人雇い写真ラボ店を開設)が眠気まなこで外に出てきた。「グッド・モーニング!」。数分遅れてキャサリンが一緒になる。暗くてフラッシュなしでは写真撮影ができない。家から2kmほど離れた森がナイロビでの主な練習場だ。そこまで緩やかに登る大きな道路の歩道を走る。
以前訪れたことのあるダグラス・ワキウリ(元エスビー食品。87ローマ世界選手権マラソン王者)の家もこの近くだったことを思い出す。まだこの時間帯は悪名高きナイロビの交通渋滞は始まらない。右手の遠方に,首都に職を求めて地方から流れてきた人達で膨れ上がったアフリカ最大級のスラム「カビラ」が見える。

タカハシの記録を率直に喜んだ

「タカハシがベルリンで世界最高記録を出した日,いつものように教会から帰ると,私のマネージャー,リザ・バスターが『ベルリンで何が起きたか知ってる?』と聞いてきました。『いや何も知らない。いま教会からの帰りなので』と返答すると,『タカハシが遂にサブ20分,2時間19分46秒の世界最高記録で優勝した!!』と,やや興奮ぎみに言ってきました。わたしは,『Wow! すごい記録を出したね! That was agood job!! She run very well down!!』と,選手の1人として喜びました。もちろん,タカハシのベルリンのモチベーションなども含めて知っていました。タカハシのシドニー五輪での素晴らしい走りをテレビで見ています。しっかりとした目的意思,優勝を目指した積極的な走りが伝わってきました。私もタカハシと同じような目的でしたが…。彼女は五輪後の最初のマラソンで史上初のサブ20,世界最高記録を狙っていることは当然知っていました。タカハシの目的はそれしかないでしょう。ベルリンのコースは実際に走っていませんが,気象条件さえ良ければ平坦で記録が出ることは知っていますので,タカハシが世界最高記録を出すことはある程度予期していました。要するに,条件がそろっていたのです。でも,期待通りタカハシが走ったのですから大したものですね。それから,タカハシの世界記録が及ぼす心理的な影響について,女子マラソンのスピード化,新しいエポックに突入したことをマネージャーと話し合いました。数年後には,きっと18分台で走る選手が続出するでしょう」

2人はアスファルト道路から離れて静かな森の中の赤茶けた道に入っていった。少し車で入ると,マサイ族の家族の集落,数十匹のサルの群れを目撃した。1時間走のゴールは,自宅に近い刑務所の舎監にあるグラウンド。車をUターンさせ,そこで2人を待機することにした。
「シカゴ・マラソン当日はスタート時の気温が低く,身体の筋肉が硬くなって走れるような状況ではありませんでした。スタート直後からペースが速いのか遅いのかもわからず,予定していた1マイル5分20秒のペース,ターゲットのサブ20に向けて予定が相当狂ってしまったのです。最初からもう少しペースを上げるつもりが,寒すぎて身体が動きませんでした。10kmあたりでタイムをチラッと見ると,あまりにも遅いのでちょっと慌てて,意識的にスピードを上げました。それほど気温の影響がありましたね。15kmあたりでやっと身体が暖まり,それまで一緒に走っていたキプラガト(ケニア),アレム(エチオピア)らが脱落したのでハーフ手前から独走でしたが,非常に気持ち良く走れていました。あの時点で,このまま走り切れば20分の壁は突破できると確信しました。
私は昨年のシカゴで2時間21分33秒を出しましたが,テグラ・ロルーペの世界最高記録2時間20分43秒は手の届くところまできたと実感しました。マラソンで50秒程度は大した差ではなく,もう少しの努力で短縮できると確信したものです。走ったものの経験ですね。残り2マイルをもう少し奮起すれば,いや残り1マイルだけでもがんばればロルーペの記録を破れたかもしれません。そう思うことが私の“Drive”(原動力)です。
今回,タカハシの世界最高は驚くことではありませんでした。走る前にタカハシの記録が直接な目標,動機づけになった覚えはありません。なんらかの刺激にはなっているでしょうが,レース中に意識したことはまったくありませんでした。ベストを尽くすことだけを考えていました。もし,あのレースでわずかでもサブ20で走れば十分でした。一生懸命走れたのは神のご加護です。19分台を通り越してサブ19を与えてくれました。ただただ神に深く感謝しています。レース直後,まだ余力を残していました」

本格的な練習は20歳から


夫アンソニーと一緒に刑務所練習グラウンドで
キャサリン,アンソニー夫妻の出身地は,首都・ナイロビから北へ150km離れた標高2400mの高地にあるニエリだ。ニエリ市は,アフリカ大陸2番目の高峰,ケニア山の山麓にある。この山麓一帯は,英国の植民地時代から “ホワイト・ハイランド”と呼ばれる肥沃な土地だ。
前述のように,キャサリンが世界最高を樹立しても,ケニア国内ではひっそりしたもの。高橋の凱旋帰国と大違いだ。わずかに,故郷のハーフマラソンのレース表彰式と一緒に,地方陸連が表彰する予定とか。キャサリンがデビューした懐かしい田舎レースだ。彼女は今,そのレースのスポンサーをしている。そのために帰省を兼ねて夕方,ナイロビからニエリに向かった。

前方を走るアンソニーの車を,運転手付きのミニバスで追う。ナイロビを出ると,北に向かって道路が伸びる。ナイロビを1歩外に出る道路は,びっしり詰め込まれたミニバス,市民の足「マタトーウ」 がすっ飛ばす。太陽が沈むと,アフリカの夜の帳はストーンと落ちる。あたりはたちまちに真っ暗。対向車はロングビームですっ飛ばしてくる。一瞬,前方が見えないのは恐怖だ。やはり運転手付きの車でホッとする。50kmを過ぎる頃から,緩やかに山を登り始める。ニエリから30km手前を右折,アンソニーの実家に車を止める。アンソニーの両親が我々を温かく迎えてくれた。ここに来るとキャサリンは義母を助けてこまごま動き,一介の主婦に早代わり。年下の夫,義父,我々にお茶を出す。やがて,すでに用意されていた夕食の支度を手伝い始めた。

「走るのが面白くなったのは5年生(12歳)の時。担任の先生が運動の時間に競争させるのですが,私は男の子にも負けなかった。それでも走ることを真剣に始めたのは高校生が終わった20歳ごろでしょう。私が競技を始めたのは,ケニアでは遅いほうですね。92年ごろからにニエリの刑務所チームのコーチに面倒を見てもらい始めたのです。私たちはキクユ族です。キクユ族はケニアで教育が最も熱心で,スポーツより勉強です。学問がなければ人を低く見る風潮があります。ですから両親は,スポーツに明け暮れて勉強がおろそかになるのを恐れるのです。高校生のときは,女子クラブに人がいなかったので1人で練習するか,男子と一緒にしていましたね。しかし,高校を卒業する前から,どうしたら走り続けられるのかと悩みました。ニエリは昔から長距離ランナーの宝庫です。ワキウリ,ギタヒ(仙台育英高→日清食品),カマティ(エドモントン世界選手権10000m優勝),サイモン・マイナ(トヨタ自動車)らがニエリ出身者です。このような環境でもスポーツ,勉強の両立を考えると不安な毎日でしたが,3人のコーチのお陰で将来が見えてきました。神のお導きでしょう」

不運な代表もれの連続

ニエリに宿泊した。運転手もニエリ出身だ。ここでも夫妻の朝練習は6時に始まる。外はまだ真っ暗。車で30km先のカラテイナ町まで飛ばす。昨夜,アンソニーの実家の周囲は闇に溶け込んでなにもわからなかったが,今朝になって周囲の全貌が見えた。南向きの赤茶けた起伏ある斜面の地形は見渡す限り茶畑だ。アンソニーは「子供のころから背中に籠を背負い茶摘をしたものだ」と話していた。ここはケニアの“茶どころ”。短い雨季が始まったとか。雨こそ降らないが,はっきりしない天気が続く。土煙が舞い上がるため,2人の走りを車で追うのは止めた。アンソニーは刑務所ガードで,クロカン,長距離のエリート選手。ただし,マラソンはやりたくないと言う。ケニアが独立直後,世界の中距離を圧巻した不世出の名選手,キプチョゲ・ケイノ(現ケニア五輪会長)も警察官だった。陸軍,空軍,海軍,郵政省,刑務所など,公務員陸上部が伝統的にケニアの長距離のバックボーンになっている。要するに,ステートアマチュア。長距離王国・ケニアでは,これらの陸上部に入ることは並みの素質では無理。こうして,キャサリンは2年間の教育後,公式に刑務所の電話交換手として就職できた。といっても,走ることが彼女らの義務,仕事であることは言うまでもない。日本の企業選手と変わらないシステムだろう。

「ケニアでは大学を卒業しても職を見つけることが難しい。まして,女性が職もなくてスポーツに熱中することは,ほとんど不可能なことです。刑務所に勤めるためには,その短大を卒業しなければなりません。勉強をしながらの練習です。この苦しいとき,3人のコーチ,アンドリアノ・ムソニェ(47歳,70年代後半,世界クロカン選手権出場経験あり),ステファン・エムワニキ(35歳,元選手),パトリック・エムワウラ(校長)が陰日なたになって励ましてくれ,私の才能を最大限に伸ばせるような方向付けをしてくれたのです。95年,アメリカに行くことを薦めてくれたのも彼らです。そのサポートは今でも続いており,彼らがいなければ現在の私はないでしょうね。ニエリのハーフマラソンをなんらかの形でスポンサーしているのも,そのときの恩返しの気持ちです。政府,陸連が何もしてくれなくても,ここでは私を心から温かく迎えてくれます。

故郷で名誉市民、世界記録樹立記念を受ける

私には94年の世界クロカン選手権(ブダペスト)の代表選考で落とされた苦い経験があります。国内クロカン選手権で6位になり,恒例の世界クロカン選考合宿のエンブに招聘されたのです。私は合宿中,世界クロカンで活躍したヘレン・チョムゲノらとスピード,持久的にも互角の走りをしていました。ところが,陸連は私の旅券申請をせず,ナショナルコーチのマイク・コスゲは『スピード不足,経験がないという理由で落とした』とスタンダード紙に発表した。私は必ず選考されると思っていたので,そのショックは大きく,泣き続けました。選手仲間には『若いのだから,今後いくらでもチャンスがあるからがんばれ! 競技を続けることが大切で,やがてはあなたの時代がやってくる』と勇気付けられ,励まされましたが,競技を断念することを真剣に考えましたね。これが私に対した陸連のアンフェアーな選手選考の始まりです。しかし,テイカナで開催されトラックの3000mレースで,その春のブタペストの世界クロカン代表を全員破って優勝しました。これが関係者に認められる最初のきっかけです。警察,軍隊,郵政省などの各クラブから勧誘がたくさんありましたが,世話になった刑務所クラブに決めていました。この活躍で現在のマネージャーと知り合い,ニエリのコーチ連が『女のマネージャーなら信用が置ける』と言って,薦めてくれたのです」

不公平な協会を見返す

「あれから協会のアンフェアーな選考には慣れっこになりました。2000年のボストンは,シドニー五輪ケニア代表選考レースと公式に詠っていました。私は2時間26分11秒で優勝しました。オケヨ理事がレース後に『これで決まった。五輪チームに文句なく選考されるだろうから,しっかり目標を定めて練習に専念するよう』と言ってくれました。私もこれでてっきり決まったと思ったら,2週間後にはエスタ・ワンジロ(当時,日立)を私の代わりに選考すると公式発表がありました。要するに,私の記録はレベルが低いというのが理由だった(ワンジロは同年1月の大阪で2時間23分31秒をマークして3位)。とても協会の説明には納得がいかなかったが,協会はガンとし て聞きません。
あんなに夢見ていたシドニー五輪のマラソン代表の座が突然,目の前で消え去ってしまったんです。アンソニーがなぐさめ,勇気付けてくれました。『心配するな!こんなことでくじけてはだめだ! もっと練習して今以上に強くなって将来彼らを見返してやろう!』と言ってくれましたが,そう簡単に忘れるものではありません。それでも,なんとしても五輪に出場したかったので,日本に飛んだのです。ボストンから3週間後,水戸国際の10000mに出場,32分17秒58で3位になりました。五輪標準記録は32分30秒でしたので,これでなんとか10000mで出場できると思いましたが,ここでも代表から漏れました。優勝した弘山への観衆の声援,メディアの数はすごかったのを覚えています。これまで日本には3回(98年の国際千葉駅伝,99年の横浜国際駅伝を含む)行っていますが,温かく迎えてくれるので気に入っています。
しかし,人生は必ずしも真っすぐではありません。良いときも悪いときもある。これも神が私に与えた試練なのだ,と考えるようになり始めました。そう思うと,目の前が明るくなってきました。陸連選考のミスを証明するためにも,私のポテンシャルを証明するためにも,秋のシカゴに焦点を合わせました。屈辱,悔しさをバネにした強烈な反動が,自己最高記録2時間21分33秒で走れたのです」

出産を契機にマラソン挑戦

「そもそもマラソンを始めたのは単純な動機でした。欧米のロードレースに勝つごとに,ジャーナリストから『あなたはいつからマラソンを始めるのか?』と,何度も聞かれました。それまではマラソンそのものが私の念頭になかったのですが,ジャーナリストによって,マラソンがロードレースよりはるかに重要視されていることに気がついたのです。
しかし,コーチも私も,一流のマラソンランナーになれるとは予想もできませんでした。97年,長女ジェーンを出産しました。そろそろマラソンを走れるだろうと思って,マネージャーのリザに,『98年からマラソンを走るようにスケジュールを組んでくれないかしら』と頼んだのですが,リザからは『産後なので,ゆっくり時間をかけてシェイプアップするように』と返答があっただけです。私は産後,11ヵ月間まったく運動せずに休養し,体重も55kgに跳ね上がっていました。ただ,実際には非常に良い休養でしたね。
私がリザにマラソンを走りたいと言ったものの,マラソンを教えてくれる人も知らなかったのです。そして,エンブの合宿に参加し,これなら大丈夫だと思った98年の世界クロカン最終選考にまた漏れたのです。またまた大失望! クロカンにはツキがありません。この年は公私ともにいろんなことが次々と起こり,失望の連続でした。99 年の春も世界クロカンの選考から漏れました。
クロカンの練習だけで,マラソン練習はまったくしていなかったのですが,リザに『どこかマラソンのレースに出場できるところはないか』と相談すると,『この時期になって言われても困る。なぜもっと早く言わなかったのか。今ならボストンぐらいしかないわよ』と言われたので,そのまま1ヵ月後のボストンに出場することが決 まったのです。
無知で怖いもの知らず,2時間32分ぐらいで走れば上出来と思っていたのですが,2時間28分26秒で6位でしょう。“心臓破りの丘”までロバ(エチオピア)について行ったのですが,いかんせん距離の走り込み不足がたたり,最後はスピードがガクッと落ちました。しかし,テストケースは大成功。これでなんらかのマラソンの手がかりをつかみました。あれは大きな自信になりましたね。2度目のマラソンはその年のニューヨークで,成績も2位,1分ぐらい自己記録を短縮しました。自分の進歩が気持ち良く身体に伝わってきました」

ロルーペは“雲の上の人”


無名のころのデレバを支えたコーチ、知人達と再会
ニエリ地方陸連主催レースは96年が第1回。名前が替わり「デダン・キマテイ・ハーフマラソン」と命名された。そのレセプションが午前11時から始まるというので出かけた。美しい紫のジャカランタの花が風に舞う。ブーゲンビルの花も見て飽きない。レセプションとは名ばかりで,植民地時代に建てられた古いホテルの庭に人が少し集まっただけ。スポンサーのホテルが飲み物,お茶を出してくれた。アンソニー,キャサリンも1人娘ジェーンを連れてやってきた。懐かしそうに知人と旧交を温める。若いコーチ,スティーブは,今年のボストン・マラソン後にキャサリンが帰国した時,世界最高記録を予言したことを披露した。

「私の自宅はナイロビにあるので,ケニアでの練習の本拠地はナイロビです。しかし,マラソンの本格的な練習は,ケニアではまったくしません。レース3ヵ月前にフィラデルフィアに飛び,練習を開始します。私の状況と,ドイツのデトモルトを拠点として活躍するロルーペ,チェプチュンバと同じですね。テグラのすばらしい活躍には強く影響を受けています。長い間,テグラは私のアイドルです。ある日,マネージャーのリザから『あなたにはテグラ以上の素質がある。将来テグラに負けない活躍をするでしょう』と言われて,『エッ!? 私がテグラのように?』と驚きました。現実にはとてもテグラのようになれるとは思っていませんでしたね。彼女は“雲の上の人”でした。
それはさておき,ケニアでマラソン練習をしないのは,セキュリティーの問題や日常生活の雑用などで練習に集中するのが難しいものです。私の場合,練習環境はアメリカのほうがはるかに恵まれています。要するに,選手が練習に100%集中できる環境であることが強くなるための重要な要素になります。それができるところが最高の条件で,私には高地,平地の問題はありません。エル・モスタファ(リザの夫で,87年ロンドンで2位になった実績を持つモロッコ生まれの元マラソン選手)は私のコーチではありませんが,99年のニューヨーク・マラソンの前に過去の大会を放映したビデオテープをいただき,わからないことがあるときはいつでも相談に乗ってくれます。ただ,彼の指導に頼っているわけではありません。今の私には練習で何をしなければならないのかわかっています。コーチの有無,練習プログラムの有無よりも,マラソン練習に必要なものは身体,頭で覚えています。または,アンソニーがいろんなかたちでサポートしてくれます。森,芝生,クロカン,トラックなどを適当にバランスを取って,1週間の走行距離は70〜100マイル,月間にして約640km程度です」

原動力はバイブルの暗誦

ニエリ出身の運転手・ジョンは,昼飯を食べ終わって3時ごろから町に買い物に行くと言って出たまま姿を消す。足を奪われて動けない。ジョンが酔っ払って帰ってきたのが午前2時だった。ひと悶着してベッドに入ったのが3時近くだ。頭がカッカしてなかなか寝られない。そうこうしているうちに夜が空けた。ケニアの人は信じ深い。沿道は,着飾ってミサに向かう人でにぎわう。日曜日の教会は人で埋まる。8時には,レースが始まるグラウンドに着いた。しかし,役員が穴を掘って杭を立ててゴール地点を設置している。2時間遅れのレースが開始された。キャサリン,アンソニー,エドモントン男子10000mで優勝したチャールズ・カマティも町の偉い人と一緒に列席した。参加者が少ないため,車椅子とベテランの部は合同。そのスターターとしてキャサリンが笛を吹いた。次のレースは一般男女。約250人の参加選手の中に,ナイロビ大学生の日本人(村上君,21歳)もいた。

「私はペースメーカーつきレース経験がないので的確なコメントはできませんが,私に自身は,ペースメーカーは必要ありません。確かに練習などでもパートナーがいるといないでは違いますが,ペースメーカーつき,混合レースなどに記録的影響がどこまであるかわかりません。(女子だけのレースが日本にあことを伝えると)本当はそれが最高でしょうね。記録とタイトルは別のもの。私の最大の目標はアテネ五輪優勝です。もちろんタカハシ,ツル(エチオピア)らも優勝しか考えていないでしょう。私がシドニー五輪に出ていれば,何色であるかは別にして,メダル獲得の自信は十分ありました。それを逃がしたのですから,最後のチャンスに賭けます。タカハシに五輪優勝経験があるのは大きな強みです。女子マラソンで五輪2連勝は誰もいませんし,初めて2時間20分の壁を破った歴史に残る記録も樹立しています。ツルは多分,マラソンを狙ってくるでしょうね。すでに10000mでは五輪で2度の優勝経験を持ち,次回マラソンで金メダルを手にすれば“史上最強の女性ランナー”と称されるでしょう。私は五輪初出場,初優勝を狙いますが,モチベーションの強さは変わりありません。ツルも私も出産後に強くなりました。日本の女性競技者は,出産後は引退すると聞きましたが本当ですか? 不思議なことですね。結婚,出産しても,ぜひ競技を続けることをお薦めします。私の限界はまだまだ先と見ています。次の世代は2時間15分台で走るでしょう。猛練習だけでは不十分です。苦しいとき,イザイア書記40章29行“弱った者には力を与え,勢いのないものには強さを増し加えられる”を暗誦します」

キャサリンは今年いっぱいレースに出場しない。来年についてはまったく白紙。例年どおり正月1日に年間スケジュールを決める。高橋陣営が「来秋,再び世界記録に挑戦する」と公言している様子を伝えると,キャサリンは「タカハシの積極的な態度はすばらしい。女子マラソンの著しい新歩を促進するでしょう。私も彼女に負けないようにがんばります。いつか一緒に走るときがくるでしょう」としめくくった。

(↑講談社・陸上競技社・月刊陸上競技誌2001年12月号掲載)
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