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【「アスティカの女王」、メキシコスポーツ史上最強女子スーパー・スター、アナ・ガブリエラ・ゲヴァラ】 | ||||
中、南米で始めて開催されたメキシコ五輪は、東京五輪から4年後の1968年だった。あの五輪は、男子走り幅跳びで世界新記録を生んだボブ・ビーモンの衝撃的な空中遊泳、ウォルディ・マモが男子マラソンで優勝、エチオピア3連勝を飾り、トミー・スミスが200mで優勝、表彰台で3位のジョン・カルロスと共に黒の手袋の拳を高く突き上げた無言の人種差別への抵抗を示し、ディック・フォスベリーの「奇妙な」背面飛びの優勝など、数々の名ドラマ、名選手を生んだ大会だった。 しかし、それ以後ここで大きな国際陸上競技大会が開催されたことはなった。要するに、陸上競技は興味が薄いのだ。ある人いわく、メキシコ人の頭には「サッカー」というスポーツが存在するだけで、ほかのスポーツはとるに値しないらしい。 メキシコがマラソン、競歩、ボクシングなどの選手以外に、およそ国際的な活躍をするのは非常に稀なこと。それが、これまでの常識を覆した異色な女子400m選手アナ・ガブリエラ・ゲヴァラ(25歳)が出現した。 ゲヴァラが陸上競技との関わりは、バスケットボール好きの女の子が、強い周囲の勧めで出場した大会で優勝したのがきっかけだった。1999年パンナム400m優勝後、スター街道をまっしぐら。 シドニー五輪400m5位、エドモントン世界選手権400m3位、昨年はさらに大ブレークを起こした。出場したGP400m7レース全勝、ジャックポットの金塊50kgを4人で分けるまでに成長した。ワールドカップ優勝、12レースに圧倒的な強さを誇り無敗でシーズンを終了した。 アナ・ガブリエラ・ゲヴァラの名前をメキシコで知らない人は少ない国民のスーパー・アイドル「アスティカの女王」が誕生した。マイケル・ジョンソンに励まされる
メダル獲得を期待した家族、ノガレスの町の人たち、メキシコの人たちも、わたしの帰国を温かくポジティブに迎えてくれました。 昨年10月3日、エルモシリヨ空港からオープンカーで町を凱旋帰国、スタジアムには何万の人たちが数時間もわたしがくるのを待ち受けてくれた。午後にはノガレスに飛んで故郷で2度目の大歓迎を受けた。あの期待、熱気は、自分の総てを400mの距離に賭けて全力で走る原動力になります。 ゴールの瞬間、前を見て指差すのは応援してくれる家族、メキシコの人たちがTVを見て応援してくれるのを知っています。ですから『この優勝はあなたに捧げる!』と言う意味が含まれているのです。わたしが勝つことは、コーチはもちろんのこといろんな人たちのサポートがなければできないこと。その感謝の表れです」 バスケットボール少女が陸上競技に転向 「わたしが生まれたのはノガレス市(人口約15万人)は、アメリカのアリゾナ州との国境にある銅山の町です。この町のナンバーワンスポーツはバスケットボール。サッカーじゃあありません(笑う)TVはNBAが最も人気番組のひとつです。 子供のころからバスケットボール大好きでした。マジック・ジョンソン、ミカエル・ジョーダンらの影響が強かったですね。しかし、わたしのアイドル、ヒーローはジョーダン!かれの大ファンで、かれの生き方、偉大なバスケットの才能は輝くばかりでした。 わたしが14歳のころ、ソノラ州立選抜チームでプレーを認められ、メキシコ国立五輪委員会のトレーニングプログラムの一環に選考されました。(注:メキシコでは五輪協会が全国から選手をメキシコシティに集めて寄宿舎を与え、専属のコーチ、施設、小遣いなど、エリート教育を与えるシステムがある) 実際にはナショナルチームでプレーしたことがありませんが、このバスケット練習でコーチ、チームメートから、スピード、スタミナを認められて陸上競技会に出てみることを薦められました。しかし、いくら進めてくれても陸上競技転向話は、なにしろそのころはバスケッボール選手で五輪出場を夢見ていたんですからとんでもないこと!全く聞く耳を持ちませんでした。 チームメートのカルメンが、以前から『あなたには陸上競技の才能がある。試しに一度やって御覧なさい!』わたしが『冗談じゃない!チームスポーツのほうが大好き。陸上競技なんて退屈だから嫌だ!』こんな押し問答が何年も続いたんですが拒絶反応が強く現実味が全くありませんでした。 96年のある日、彼女が『来週、州立選手権があるので、とにかくやってみたら?』と言われたので、ついに気が進まないまま、彼女に従って400,800m(注:3月)に出場してみたら、両種目に優勝してしまい州新記録を樹立しました。 これが以外におもしろくなって、ユース全国大会(4月)の400、800mで優勝、2ヵ月後にはイベロアメリカーノ・ユース大会がコロンビアで開催され、4x400mに出場して3位、400mは54秒79で4位。 7月には中央アメリカユース選手権400m55秒62で4位、800m2分9秒8で2位。このころは海外にも遠征できるし楽しくなりましたね。8月にはオーストラリアで開催された世界ユース選手権の400mに出場にまでなったのです。準決勝で12位、56秒60だった。とにかく、アッという間に陸上に転向していましたね。(笑う) 地元の高校を卒業、エルモシリヨにあるソロナ大学に入学したのですが、大学はスポーツのキャリアが終わってからでも行くことができると考え、1年チョッと行き現在は休学中。 97年シーズンは、400と800mレースに半々で出場、イタリアで開催されたユニヴァーシアードは、800m2分2秒90で6位になりました。」 キューバのコーチ、ラウル・バレダとの出会い 「キューバとメキシコの関係は、伝統的に深い絆で結ばれています。キューバの選手がメキシコにトレーニングにくることは珍しいことではありません。わたしが陸上を始めたころ、長期的な視野にたって、ラウル・バレダ(61歳)が400m選手を800m選手にコンバートする計画を実行に移そうとして、だれにしようか選手を物色中でした。 ラウルはわたしに課した最初の大きな目的は、400mで世界選手権、五輪の優勝の計画でしょう(笑)要するに、ラウルの基本的な長期計画は、わたしを"第2のアナ・キロット"に育てる野心です。ラウルはキロットを育てた名コーチ。800m選手育成のノウハウをラウルは持っています。 400mで世界の頂点まで持ってゆき、その後に800mに転向させるのが成功の道だとの強い信念の持ち主です。上手く行けば話ですが、今のところ、半分ほどは成功していますね。 でも、最初のころはとんだ失敗が付いて回りましたね。ラッキーにも、わたしが97年アテネ世界選手権へ800mBエントリー選手として送られましたが、アテネについてみると出場申請がされていない!!手続ミスが発見されたが、出場許可は下りず。 わたしのミスではなかったので、主催者は選手村に滞在を許可しましたが、あそこにいただけでも、大会の雰囲気を知る経験は非常に良かったことを覚えています。 記録もグングン伸びてきました。98年の最高記録は400m50秒65,800m2分1秒12です。その次の年、ヨハネスブルグで開催されたワールドカップ大会のアメリカチームの4x400mリレー要因として選ばれたが、飛行機に乗り遅れて出場できなかった悔しさはいつまでも忘れるものではあります。ですから、昨年マドリッドで開催されたワールドカップで優勝する強いモチヴェーションになったのです。 総てが計画通りに行くとは思っていませんが、99年、カナダのウイニペッグで行われたパンナム大会の400m50秒91で優勝。初めてのおきなタイトルを獲得、これでわたしの人生が大きく変わりましたね。 メキシコ人女性の陸上選手が、スプリントでパンナム大会を優勝したのですから・・・みんなが驚いた。この年のベストは400mが50秒70,800mは2分3秒69です。特に、800mの練習はほとんどしていません。」 今季の400mレースはおもしろい激戦になる
1997年1月、わたしのコーチを始めたころ、ラウルコーチは400mで8年計画を準備、説明してくれました。毎年度のような目標でアテネまでという筋書きです。でもかれの筋書きにないものが出てきました。昨年、GPジャックポット、GOファイナル、ワールドカップ、自己記録更新など、マリオン・ジョーンズ、イチャム・エルグルージュ、フェリックス・サンチスらと、同じ位置になるとは予想もしませんでした。 昨年の経験、実績は大きな自信をもたらすでしょう。しかし、まだまだ、大きな一歩を踏み出したばかり、昨年の結果に満足しません。することが目先にいっぱいあります。 ラウルはわたしの素質は800mに最も適切な才能を持っていると判断、確信しています。その素質は厳しい800mに耐えられる"抵抗力"とでも言いましょうか、それを大きく買ってくれています。 バスケットボールをやっていたので、ジャンプ力はあるなど、"クロストレーニング"をやってきたようなものですから、人並み以上に筋力が強く故障が少ないことです。わたしも96年陸上競技をはじめてから、いつも400,800mの両種目を走ってきたので、やがて800mに転向することになっても違和感はありません。 アテネ五輪までは400mで狙いますが、その後は多分、800mに転向するでしょう。それも新しいチャレンジではないですか。」 今年の3大目標、パンナム、世界選手権優勝、サブ49秒 「昨シーズンは3月9日が最初の国内レースから始まり、12月5日のサンサルヴァドルで開催された中央アメリカ選手権大会までとにかく長かった。オフは完全休養が必要でした。 それでも、今季の練習開始は12月26日から始めましたが、慣れない室内世界選手権の出場は中止することを前々から決めていました。そこで練習開始は、ソロナ州のエルモシリヨ(海抜100mの平地)のバチョコ山麓で始めました。 ここでは自然の起伏を使った練習で、柔らかい砂地を走り、基本的な脚力を作るためです。いろんなことにわずらわせられることなく練習に集中できる環境です。 わたしのコーチラウル・バレダはキューバ人ですから、暖かいキューバに1月の半ばから2月9日まで3週間合宿練習しました。 メキシコに帰国後、予定が少し延びましたが、メキシコシティに19日まで滞在。練習、行事、約束ごと(これらは広告関係の仕事)などがビッシリ消化しました。エルモシリヨで練習するのは、わたしは400m選手が高地練習の影響が、それほど長距離選手のようにあるとは思いません。 ここは平地なので通常の練習ができる理想的な環境があります。まだまだ練習を開始たばかり。 今年の前半欧州遠征は控えて(昨年欧州GP転戦の調整は、スロヴェニヤの首都ルビヤナでベース基地を設けていた)、アメリカ、国内レースで調整、ドミニカ共和国で開催されるパンナム2連勝、世界選手権優勝、できればサブ49秒か自己新記録を更新が目標です。 毎年国内の期待が高くなるが、プレッシャーが増すほど闘志が燃えますね。わたしの活躍がメキシコの若い世代に陸上競技に興味を持ち出し、やればできる自信を与えることができるならこれほど幸せなことはありません。わたしの今シーズン最初のレースは、5月3日メキシコシティの五輪スタジアムで開催されるGP大会までエルモシリヨで調整します。」 |
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(↑講談社・陸上競技社・月刊陸上競技誌2003年4月号掲載)
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