世界長距離王国、エチオピアが燃えた】
エチオピア陸連は、シドニー五輪に800mからマラソンに男女総勢25名の選手を送った。その結果、金4個、銀1個、銅メダル3個、4位入賞3人、6位入賞3人の史上最高の成績を上げた。予選落ちは将来性ある若手選手3人だけ。メダル獲得率33%、入賞率60%以上、世界に、“長距離王国エチオピア”を鼓舞した。最初の金メダルは、大会4日目ハイレ・ゲブレセラシエが1万mで2連勝を達成した。その日、エチオピアの首都・アジスアベバの若者は道路に飛び出し、踊って祝福した。大会8日目の女子1万mは、最後の400mを60秒、男性顔負けの驚異のスパートを放ったデラルツ・ツルが優勝し、ゲテ・ワミが2位。同日の男子5000mでミリオン・ウオルデイがゴール寸前の逆転激でよもや優勝。そして饗宴フィナーレは、ゲゼハン・アベラの32年ぶりのマラソン優勝で締めくくった。

ミリオン・ウオルデイと金メダル

政府はヒロイックな活躍をした選手を迎えるために、エチオピア航空特別機をシドニー飛ばした。機がアジスアベバから300km付近の上空に近づくと、ミグ23戦闘機3機が出迎えてエスコート飛行。無事にタッチダウンした特別機に、前夜から待機していた出迎えのファンから大歓声が沸く。厳重な兵士のエスコートで、沿道に立錐の余地もなく埋まった人垣をぬって、空前な凱旋パレードが挙行された。メスケル広場まで8km、所要5時間!この日、官公庁、学校も勝手に閉鎖。われらの英雄を一目見たさに広場に集結した観衆50万人以上。押しつぶされて2人の死者、重軽傷者多数続出した。

エチオピアを訪れたのは11月半ば。五輪チームは解散して完全休養中だが、選手は軍用機で地方歓迎パーテーに飛び歩かなければならない。この時期、協会は新たなクロカンシーズン、世界室内選手権大会に向けてのターゲットを検討中だった。

“生きた伝説のランナー”ハイレ・ゲブレセラシエ


ハイレ・ゲブレセラシエ
絶望的な足の故障を乗り越えて

ハイレと気軽に話すようになってから、かれこれ6年以上になる。1万mで93年世界選手権から無敗、大試合で6連勝。5000m、1万mなどで驚異的な世界記録を15回更新(注:これは故エミール・ザトペックの18回に次ぐ史上2番目の快挙。)1万mで五輪2連勝した史上稀な小柄の偉大なランナーだ。いつどこで逢っても笑顔を絶やさず、いつ電話しても声のトーンはこれっぽちも変わったことがない平常心の持ち主。だが、そのクールな男がシドニー五輪前、かつて全く経験しなかった絶望的な窮地に立たされた。その事情を知る人は少ない。

「シドニー五輪に向かったのは、レースに出場することではなく、エチオピア選手のバックアップとスポンサーのプロモーションが目的だった。ジョッグどころか歩くのにもふくらはぎ、かかとに痛みが激しく、とても走れる状態ではなかったので、五輪出場はほぼ諦めていた。事の起こりは、8月の2回目の欧州遠征中だった。ロンドンGPは問題が無かったが、チューリッヒGPの練習中に痛めた右ふくらはぎと、特に、着地する時のかかとに激痛がくる。歩くにも痛く、エチオピアに帰ってからも一向に痛みが引かなかったので、8月の半ばから五輪までジョッグもまともにできなかった。こんな経験は始めて、一時はパニック状態だったね。焦るばかりで、足の状態は一向に回復の兆しはなく絶望的な状態だった。ぼくの女房アレム“シドニーで走りたい気持ちも判るが、あなたはすでに五輪の優勝経験がある。まともに走れないようなら参加すべきではないだろう”と、言った一言が気持ちを楽にしてくれた。レースの出場を諦め、義務でシドニーに行った。それまでは、なにがなんでも参加して走らなければならない義務感でガチガチだったからね。しかし、いざ選手村に入って陸上競技が始まると、選手の性(笑いながら)ぼくの足がどうなっても良い。男子1万mが最初のエチオピアメダル獲得チャンス。やってやろう!と、猛烈に走りたい意欲に駆られた。例え、あそこでぼくが負けても、ぼくの足の状態を知っている同僚は、ぼくがベストを尽くせば選手全員に刺激を与えモラル高揚するのではないかと考えた。もちろん、リスクはあった。コーチも、同僚も無理するなといってくれたが、ある程度の覚悟で行動しなければなにも起きない。予選が終ってみると、思いのほか痛みがない。直ぐに楽観的になって“オヤッ?これはいけるかな?“と、内心ほっとしたことは確かです。ぼくは基本的に、近代的な薬は信用しない。自然であることが最も重要だと考えるほうだから、手術なども好きになれない。予選から決勝まで中2日、ひたすら休養した。決勝でポ−ル・タガートとの対決は、やはり不安が残った。ポールも最高の調整で必死に、最後のチャンスに初優勝を狙ってくるだろう。ぼくは約40日以上の練習ブランクからくる体力不足で、かれらのペースについて行けるか?先頭集団に付けても最後のスパートに全力疾走が可能か?足がどこまで持つか?不安材料ばかりで頭がいっぱいになってきた。

レース前、チームメイトのメズゲブに、“われわれが勝負する選手はポールただ一人。ほかの若いケニヤ選手はそれほど怖くない。絶対に先頭から離されるな!”と指示した。シドニーのスタジアムは、柔らかいトラック、勝つことを目的にした展開なのでスローペースを予想した。思ったように前半13分45秒程度で通過。後半も適度なイーブンペースだったのが幸いした。最後の2週を残して、“今日のレースは勝てた”と思った。しかし、残り180mあたりでポールが”アッ“とした瞬間スパート。ぼくはホームストレートが勝負だと思っていたから、完全に虚を付かれたね。一瞬”やられた! 負ける!“と思ったね。反射的にポールを追っていたが、”足よもってくれよ!“と祈り、悪い予感も頭を掠めた。でも、アスリートの本能だろう。なにもかも忘れて全力でポールを追った。最後まで諦めずにかれを捕まえ、抜くことだけの必死の闘争だった。ゴール手前30辺りでポールがグーンと近づいてきた。残り10mで勝てると思ったね。不安だった体力、足も不思議ともってくれた。こんな苦しいレースは始めてだった。素晴らしいレースになったポールの健闘を称えたい。この勝利を神に感謝したい”ハイルの妻アレムは、ポールがスパートした瞬間、TVを怖くて見ていられずハイレの勝利の瞬間を見逃してしまったという。

ハイレが獲得した2個目の金メダルも、アジスアベバの北、イントト・キダムクタの聖マリー教会に奉納された。その理由を尋ねたが、特別の思いがあるのだろうか、ハイレには珍しくまともに応えない。ユーカリの茂る山に向かって伸びる道路は、“古刹”の雰囲気が漂う教会と修道院前で止まる。夕方、近くの信心深い村人たちの参拝で境内は一杯になる。ハイレが奉納した2個の金メダルはこの教会の中に鍵を掛けて安置されている。

国民のアイドル、極貧国に夢と希望を!

11月のある日。

約束の時間きっちり、ハイレがスチュットガル世界選手権大会で優勝した時の副賞、メタリックカラーのメルセデスベンツを駆ってホテルまで迎えにきてくれた。シーズンオフのため朝練習もなく、1年のうちで今が最もリラックスすることができる時だ。高台のホテルから降りて、道路交叉のため一時停車すると、たちまち物乞いが窓際に寄ってくる。“ハイレ、ハイレ”と親しみを込めて呼ぶ。ハイレは慣れたもの、ギアーシフトバーの側に山ほど小銭を用意してある。一人一人に丁寧に手渡す。ハイレは物乞いを拒否しない。理由を訊ねると、“ぼくは、少しでも貧しい人に援助をする義務があるからね”と、笑顔が帰ってきた。街中に巨大なハイレの走る壁写真、アムハリック語のスローガン“イチャラル”(やればできる!)がシドニー五輪後出現した。アジスアベバ商工会議所が、ハイレの偉業、名声に頼って、国家建設意欲を市民に訴えている。とは言え、現実の生活はそんなに甘くはない。エチオピアの二転三転した国政、東部の旱魃、隣国エリトリアとの戦争後遺症もあって、世界でも極貧国のひとつ」だ。失業率は65%とか、大学入学は100人に一人、卒業しても職にありつけるのは50%、絶対的な慢性的な職不足。大卒の月給料が500ビル(1ビルは約14円)。店員は月給が約200から300ビルという。

ハイレは言う。「今回成績が良かったので、政府は異例な処置をとった。選手8人、コーチ、アシスタントコーチ10人めいめい500平米の土地(場所にもよるが、土地価格は市内なら15万ビル)現金で7万ビルの褒賞を与えた。この額、大卒初任給の12年分に相当する。この政府の具体的な選手待遇は伝統的なことだが、われわれの後続に非常に強いインパクトを残す。エチオピアの誰もが、走る努力と才能でゼロから国民的な英雄になれるチャンスがある。ハイレ・セラシエ皇帝の保護によって、アベベ・ビキラから始まった長距離の伝統は、途切れることなく継続されている。これがエチオピア選手の強い秘訣のある部分でしょうね」

市内最大のメスケル広場で、“裸足の王様”アベベ・ビキラを伴って来日したこともある最後の皇帝、ハイレ・セラシエの葬儀が挙行された。当時の皇帝は、国内の封建的支配体制に手をつけず、華やかな外交政策で注目された。1974年9月、帝政から社会主義国家を目標に、軍事クーデターによって皇帝は暗殺され3000年皇統連綿に終焉を遂げた。あれから25年目、有志によって正式に王家墓地に埋葬された。カラフルなコプト派キリスト教の司祭、生き残りの皇族、ハイレ・セラシエ皇帝を生き神様として奉るジャマイカのラスター、故ボブ・マリーの未亡人、ヴェテラン兵士、親皇帝派の人達が数百人、最後の別れを偲んだ。ハイレも静かにVIP席に混じった。しかし、大部分の国民は、4分の一世紀前のおぼろげな皇帝の記憶を呼び起こしたに過ぎない。長い式が終り、皇帝の棺は真っ黒な煙を吐くオンボロトラックに乗せて市内を巡回後、教会に向かった。行列を見送りながら、ハイレは「25年の歳月は長いね。見送る人が少なかったのは寂しい。今の若い世代は、皇帝を知るものは少ないんだね。皇帝は悪いことばかりしたんじゃあないよ」と、チョピり悲しそうな表情だった。

ハイレセラシエ最後の皇帝の葬儀

ハイレの雄姿が新切手4枚に

ハイレの家は、アジスアベバで最高級住宅地の一角にある。ハイレの妻アレムが迎えた。エチオピアでは人がくると、必ず、飲料水を客に勧めるのも高地で乾燥しているためだろう。喉が乾く。その間、テーブルはサラダ、マトン、牛肉などの煮たもの、パン、インジャラで埋まる豪勢な昼食が用意された。アレムの姉、昼寝から起きてきた長女のエデンも一緒に、楽しく、賑やかな昼飯。それからハイレは、エデンを相手にして、数メートルに及ぶ長いファックスを読む。携帯電話がひっきりなしになる。

昼食後、ハイレはスーツから皮のブルゾンに着替え、五輪後、市が約3kmの大通りを“ハイレ・ゲブレセラシエ アベニュー”と命名した。その通りに、近代的なハイレの貸しビルがある。ハイレが車から降りると、いろんな人とエチオピア独特の長い挨拶を交わす。その中に、マラソン五輪銅メダルを獲得したテスファヤ・トラ、彼の友人テスファヤ・ジファーもいた。満杯の駐車場コンクリート壁ひとつを隔てて、汚臭を放つ川、段ボール、プラスチック、廃材で作られた粗末な小屋が目に入った。ハイレのビルの最上階“ペントハウス”のテラスからの眺めは、正しくも「天国と地獄」だ。ハイレに現実のエチオピア問題を軽く突込みをいれた。

「イデオロギー、政治の世界は、ぼくの力ではどうすることもできない。しかし、ぼくが走ることによって、エチオピアの人になんらかの夢と希望を与えることができる。エチオピア人の模範になるような努力は惜しまない」


10階建てのビル現場で
元銀行員だったハイレの長兄と打ち合わせ後、ハイレの第2ビルの工事現場に向かった。そこにもハイレ兄弟二人が現場監督。かれの兄弟を紹介されるたびに、エチオピア大家族制度に戸惑う。とても紹介された顔、名前は覚えきらない。例えば、エチオピアでは珍しくない10人兄弟がいるとしよう。結婚するとかれらの配偶者の数も家族の一員。そして、子供ができるとたちまちに家族は天文学的な数に増えるのだ。しばらくハイレは工事関係者と談笑。夕食を招待されたが辞退、再びホテルに送ってくれた。

次の日、ハイレは忙しかった。9時からドイツ大使館に行きヴィザ申請。10時、ホテルで合同、事務所によりアレム姉妹、兄を伴って国連会館へ。11時、郵政大臣出席のもと、ハイレ記念切手発行記念パーテー。4枚の新切手が披露された。大臣の挨拶が終り、方々でハイレを過去も記念撮影。正午、事務所に行き書類に目を通してから、兄の家で遅い昼食。久し振りに、ハイレの母親親代わりの姉2人と再会した。14時、フィンランド領事館でヴィザ申請。通常なら、山のような書類を提出、少なくとも発給までに一週間掛かる。ところが、ハイレはVIP待遇。その場ヴィザは発給された。ここでも領事館の人達の要望で記念写真を撮影。また、事務所に戻り書類に目を通す。16時、飛行場近くのサッカー場で、エチオピア航空表彰式にアレムと出席。航空関係者数百人の出席、バンドの音楽で盛り上げる。ハイレは、家族共ファーストクラス無料10回分の航空券を授与。ほかの選手、コーチ陣も恩恵を受ける。ハイレが選手を代表してスピーチを始めた頃、小雨が降り、空に美しい虹が輪を描いた。その夜、ハイレ夫妻は、知人の結婚式に出席した。

改めて、エチオピアにおけるハイレの存在の偉大さを認識できた。かれの選手の業績も然ることながら、圧倒的にほかのどの選手とも“格”が違う。アベベ・ビキラ以上に“生きた伝説のランナー”の人である。

「レースに勝つことより、常勝を続けるのはさらに難しい。自分に常勝を義務付けて休むことなく高い目的意識、テンション、猛練習を続行ですることが難しくなってくる。体力的な問題ではなく、心理的な疲労かもしれない。これらのどれが欠けても、良い結果は伴わない。ぼくのキャリアは、クロカンでは今ひとつ思ったような結果が出せなかったが、トラックではおおよそ満足な成績を残せた。だから、次回世界選手権大会に向けて、新たなモチベーションが持てそうにもない。新鮮な刺激、意欲が今まで以上に強く沸かないだろうね。そのためにも、足の状況が良ければ新しい挑戦、マラソンに転向したい」と断言した。

その2日後、スイスに飛び3日間精密検査を受けた。11月16日、チューリッヒの南150km、スイス時計で有名な街なマグレンゲンにあるスイス国立スポーツセンターでカカト軟骨削除手術を受けた。電話の向こう側から、いつも変わらないトーンが聞こえてきた。

“フィンランドで治療を行なう予定を急遽変更。ここの医者に、手術は簡単、手術以外に治療はありえないと納得させられてね、大嫌いな手術を受けた。わずか一時間で総てが終了。総て順調、心配は全くない。11月一杯ここに滞在、その後、オランダでリハビテーションしながら様子を見ることにした”

短時間で英雄に駆け登った男、ゲゼハン・アベラ

エチオピアに32年ぶりで五輪マラソン優勝をもたらしたゲゼンゲ・アベラは、エチオピア陸上選手の仲間からも一歩外れている。わずか3年前、通常アジスアベバで行なわれる新人登竜門“アベベ・ビキラ マラソン”を地方開催した。このレースでアベラが3位になって頭角を表した。その後はトントン拍子、昨年の福岡で優勝、ボストンは激戦の末2位、そして五輪優勝を遂げた。この間わずか9ヶ月!!マラソンの怖さ、五輪のプレッシャ−も知らずにフレッシュな脚力で駆け抜けた男だ。アジスアベバから東南に140km、3000m高地のアルシ地方のフルタ集落出身。急激に身辺の変化に、彼の想像力が及ばないのだろうか?アベラは、ぼくの友人アベベ・メコネン、ブルック・ベケレ、協会からも助け舟を出してもらって連絡をいれたが、のらりくらりインタビューを拒む。しかし、最初のころはその理由がなんとも解せないため、すっかり振り回された。ついに、ぼそぼそと金を要求してきた。電話では埒があかないと見たのだろう。剛を煮やしたアベベ・メコネンが運転する車で、真っ直ぐ西に約5kmジファー兄弟、テスファエ・トラの近所にある彼の家に押しかけた。母屋の裏の貸し部屋からアベラの兄が出てきたが、弟は不在という。話しても要領が全く得ない。明らかに嘘を言っている。とうとうメコネンは怒り、市内に戻ってきた。次の日、アベラは、エチオピア航空主催の表彰式も欠席。陸連の人達も理解に苦しんでいた。そうこうしているに、情報が方々から集まり、昨年長野マラソンで2位になった、ベライ・ヲラソがアベラに強力な影響力を持つことが判った。アベラは総て、自分で判断、決断をしないで、彼の指示を仰いでいるらしい。エチオピア滞在残り2日、ヲラソがNYから帰国した。幸い彼は少し英語を話せる。意図を説明すると、電話口でかれはストレートに金を請求してきた。ぼくは金銭でインタビューを買うことは絶対にしたことがない。金をビタ一文払う気はまったくないことを明確に伝えた。しかし、逢ってこちらの意図を聞いてくれと言うところまでやっと漕ぎつけた。すぐに、かれの家にタクシーを飛ばした。本誌7月号のエチオピア特集、11月号の五輪特集を見せると、あっけないほど簡単に、滞在最後の日に無料インタビュー、撮影許可が下りた。

次の朝9時、アベラは運転手付きで国内唯一のランドローバーで、ヲラソと後席に一人の女性が座っていた。どこかで見た顔だと思ったら、前回ここに来た折ツルと一緒に撮影した五輪女子マラソンで6位になったエルフィネッシュ・アレムだった。これでグーンと、また、かれらは打ち解けてきた。朝飯前だというので、近くのカフェで朝食を取りながらのインタビューになった。

子供のころからが夢が叶った

走り出したのはいつごろか?

アベラよく覚えていないが(記憶を辿るようにして計算、こうしないとエチオピア歴から西洋歴に起きかえるのが非常にややこしいからだ)、14歳ごろだと思う。

走り出した動機は?

アベラ走ることはアルシ地方(アジスアベバ南東、3000mの高地。ビキラ・アベベ、ヲルデイ・マモ、ハイレ、ツルらを輩出した伝統を持つ長距離選手を生む)の子供達は、長距離ランニングで大成することが夢。走るか、ボールを蹴るか、そのぐらいの遊びだけです。

その田舎の環境は?

アベラアジスアベバから約270km(一般にエチオピアの人達は、数字に大雑把の観念がある。地図を見て計算すると140kmぐらいの距離)、フルタと呼ばれる人口1万人「?」程度の山間の農村。学校はありますが、水道、電気も無いところ。もちろん走るトラックなんてあるはずがない。

アジスアベバに出てきた動機は?

アベラ5年前、国内最大のセメント会社ムガーの陸上クラブに勧誘されたからです。当時、ムガーは陸上クラブを創設直後だった。選手勧誘のコネを方々に張って、地方レースから、若い才能を発掘するんです。月給は600ビルで、好きなスポーツで給料を貰えるなんて最高の幸せだった。

ムガーのコーチは、トラソ・コツ(モスクワ五輪1万m4位、27分46秒31の記録保持者)。かれの指導で強くなって、マラソンに転向したとか?

アベラまあ、そうですね。ムガー陸上部に入ってから最初の3年間は、5000m、1万mの選手だった。が、コーチがマラソンを薦めた。スタミナ、エンデイユランスの質素はあるが、短い距離で何段にもスピード切り替えができない。トラックで大成する最も大切なスピード不足を指摘された。

その時、簡単に納得したの?

アベラエチオピアの長距離選手層は厚いですからね。それを考えると、マラソンは非常にきつくて嫌だったが、最終的に渋々コーチに従って始めたんです。

最近、そのコツ コーチとの不和が伝えられているが?

アベラ意見の食い違いですよ。(笑いながら)現在はかれ(ベライ・ヲロソを指して)がぼくのコーチです。

かれはコーチ、マネージャー以上に、あなたに強い影響力を持つのはなぜか?

ヲロソが、すかさず、“練習仲間だし、俺のほうが国際経験が多いし、英語が話せるのでアベラのアドバイザーをしているんだ”

最初のマラソンは?

アベラ3年前。毎年アジスアベバで開催される“アベベ・ビキラマラソンが、この年になって始めてバハルダール(アジスアベバから北へ400km、国内最大のタナ湖南にある4番目に大きな町)で開催された。そのレースで3位。その結果、1998年、ナショナルチームのカタゴリーCに加わった。(ナショナルチームは、実力によってA〜Cの3段階に分かれる。)

1999年春のロスマラソン、それからシドニー五輪優勝までわずか1年半、成功の秘訣は?

ベライ・ヲァソが、口を挟んできた。“アベラをマネージャーに紹介したのはおれだ。あのころのアベラには国際経験が必要だった。しかし、かれらは半信半疑だった。躊躇しながらもとりあえず、テストケースでロスアンゼルスマラソンに出してみたら4位。次ぎに福岡に売りこんでかれらの予想に反して優勝してしまった。次には、ボストンには招待されて2位だった。俺の眼識は確かだ。シドニー五輪前だって、好調だったのでメダル獲得は間違い無く期待していたんだよ”

アベラマラソンの経験は少ないが、自分でも驚くほど、ぐんぐん伸びるのがわかる。それに上手くはまって五輪に優勝、夢が実現したんです。

シドニーで優勝できそうな予感がしたのは?

アベラ走っていても疲れはなかった。勝てそうな予感がしてきたのは35kmを過ぎてからかな?スタート前にコーチから風が強いから、後方について自重して走れ。勝負は40kmからだと言う指示に従った。ワイナイナが前に出ても怖くなかった。

エチオピア選手同士で、助け合って走ったのか?

アベラエッ?どうしてそんなことをしなければならないの?トラはかれのペースで走ったし、ぼくは自分のペースです。(アベラは、テスファヤ・トラ、ムガーセメント会社のトロサ・コツコーチらと、現在は犬猿の間柄と言う

ボストン、シドニーの坂と、イントト(高地3000m)の練習の坂、どこが最もキツイか?

アベラもちろん、イントトの坂ですね。ボストンの心臓破り丘は、いつ終ったか知らなかった。シドニーの起伏ある坂も、それほど苦にならなかった。

五輪優勝した瞬間の気持ちは?

アベラ勝った瞬間、頭がボヤーとしてなにがなんだか分けが判らなかった。表彰式は凄く感動したね。

これで偉大なマラソン先駆者の仲間入りができた。

アベラ伝説のビキラ、マモらのとは、まだまだとても比較できない。おれがやらなければならないことが沢山ある。まず、世界選手権に優勝、世界新記録樹立、もちろん、次ぎのアテネ五輪でもがんばりたい。とりあえず、今は福岡、来年の春はボストンを走る予定です。

五輪優勝後、人生変わったでしょう?

アベラおれの人生はここ1年足らずで100%変わった。予想もできないことが、次々と起こる。アトランタ五輪マラソンで優勝したファテイマ・ロバは、帰国後ボデイガードを3人雇って身辺を守った。おれはそこまでする必要がないが、エチオピアの人達は、五輪優勝者は急激に金持ちになったと思うので、危なくてしょうがない。

しかし、これから金持ちになれるでしょう。

アベラ五輪に優勝したので、今後は賞金レースでどんどん稼ぎたい。政府から土地を貰えるので大きな家を建てたい。家族も田舎から呼び寄せたい。

アトランタ五輪女子マラソン優勝者、ロバ

兄弟は何人?

アベラ4男4女、おれは4番目。

ハイレがマラソンに転向するらしいが?

アベラそれは大変に素晴らしい。大歓迎ですね。

ところで世界記録はどこまで伸びるだろうか?

アベラほかの選手のことは知らないが、おれが調子良く、天候に恵まれれば4分台の可能性はあると見ている。

(アレムに)次ぎのレース予定は?

アレム大阪女子マラソンです。あそこでコースレコードを破りたい。

(アベラとアレムに向かって)あなた方は一緒に住んでいるのでしょう。結婚の予定は?

アレムが、突然笑い出して、“エーッ!そんなことどこで知ったの?”

あなた方は世界中で走るのが商売。ぼくは世界のどこに行っても情報を集めることが商売。ところで、いつから一緒に住んでいるの?

アレムは笑いと飛ばして、返事をごまかしたが、のちほど聞くと2年前から同棲しているとか。朝食を終え、市の南にある聖ジョセフ教会へランドローバーで、アベベ・ビキラの銅像前で撮影に向かう。


アベベの壁画
(アベラに)アベベ・ビキラの銅像を見たことがあるの?

アベラないね。こんどが始めて。

運転免許は取ったの?

アベラ車を買ったが、免許はまだです。

アベベ・ビキラの銅像の前で、アレムはアベラとの一緒の撮影を嫌がったが、やっと口説いて撮影を終了。16時に練習風景を撮影の約束、ひとまずスタジアム前で別れた。

約束時間少し前にアベラの家に行くと、兄がさらに約2km離れた、かれらの言う隠れ家(?)に案内してくれた。そこの家で2年前からアレムと一緒に居を構えた。

練習は、山をジグザグジョッグで登る。かれらを追って撮影、少し動いただけで心臓が破裂しそうに鼓動した。ここは海抜3000m。

アベラを発掘、マラソン転向を薦めたトロサ・コツ コーチ

エチオピア陸連フルタイムナショナルコーチは2名。一人は、10数年以上ハンガリーで教育を受け、ハンガリー語を母国語同然に操るメスケル博士。ハイレを育てたトラック契約ヘッドコーチ。開放的な人柄で、陸連の中心的な人物。かれはエチオピア女子マラソン選手で、消極的な作戦で失敗を認める。もう一人のナショナルコーチは、イルマ・ベルター、チェコで博士号を収得したが陸上の経験がない。シドニー五輪マラソンヘッドコーチ。やや閉鎖的で、具体的なトレーニングシステムの公表を拒否。ほかのコーチは元選手が多く、通常クラブのコーチをして、世界選手権、五輪の時だけ、アシスタントナショナルコーチに就任するシステムを取っている。

トロサ・コツ(50歳)コーチは、モスクワ五輪1万m4位の実績を持つ元陸軍陸上部大尉。7年前、国内最大のセメント会社の依頼を受けて、陸上クラブを創設。短期間に、シドニー五輪マラソン1、3位、エチオピア記録保持者のT.ジファー(2時間6分49秒)の3人を発掘、才能を伸ばしてきた実績を持つ。3年前、この3人をトラックからマラソン転向を薦めた。“当時、早くから3人の能力をマラソン向きと判断した。かれらはマラソン転向に怖くて尻込みした。が、短期間に世界一流の選手に育ってくれた。まず、昨年のアムステルダムマラソンで、T.ジファー、T.トラの6分台も予測できた。この3人が五輪マラソン選手に選考されたが、T.ジファーが胃腸炎で出場辞退。五輪前は、練習中はトラが圧倒的にアベラより強かった”とコツコーチは笑う。五輪合宿では、トラックのアシスタントコーチを努めた。実は、ぼくは男子マラソンレース数日前、シドニー五輪スタジアム前でかれと話した。“アベラ、T.トラが絶好調、メダル獲得は確実だ”と予言したのを覚えている。

エチオピア五輪協会は、アジスから東40kmサンダファで、初めての試みとして3月間の長期合宿を認めた。コツコーチは続けて、“ここでの練習は、エンデユランス・ビルドアップに、高地2400で3分(スピード)〜3分(スロー)x10本、3000mで丘を利用して登りを全力、スローで下るインターバル。起伏のあるコースを90分または2時間スローペース走。逆に、短い時間ある程度のスピードで40分か60分走。アスファルトの上は走らない。変化に富んだ練習で、単調な練習に飽きがこないようにする。

マラソンレース2ヶ月前が、最も難しい。走りこみで十分に基本的な総力が作られたかが肝心。これはごく一部だが、エチオピアマラソン選手が五輪合宿中に行なったスケジュール。練習は、高地2400から3000m。トラック、アスファルトロード使用は週1回。“

月―朝、80分クロカン走、 午後―緩急をつけた1時間走、ストレッチング

火―朝、ロード(アスファルト)70%の力で20〜30km走。 午後軽いジョッグ程 度。

水―朝、クロカン50%の力で60分走。 午後―ジョッグ

木―朝、トラック使用、2000mx5本、72〜73秒楽に走る。400mx20本、65秒、イン ターバルは1分。午後―トラックを使ってジョッグ。

金―朝、クロカン一時間走、楽に。 午後―ストレッチ

土―朝―高地3000mの丘を使って、200mx12本。 午後―クロカン、楽に走る。

日―朝―1時間走。  午後―休養

ロード20km走の場合、最初の5km:15:10:20、10km:15:05:10、15km:14:50、20km:15:00:00。

“わたくしは、スタミナ、パワー、スタミナが、マラソン3要素と信じる。合宿中に、作戦を与え、メンタル、イメージの強化を毎日行なう。練習でなにをしたか、その意味、効果を説き、次ぎはなにをするかを理解させることが大切。日本女子マラソンは強かったが、アレムも調子が良かった。メダルを取れなかったのは作戦の失敗だ。

アレムは“給水した瞬間、高橋があっという間にスパートした”と言うが、なぜ高橋を追わなかったか?後半に備えろ!のコーチの指示が裏目に出たのだ。その失敗を男子マラソンに生かした。5km毎に携帯電話で連絡支持できる体制を整え、中央から指示を飛ばした。欲を言えば、テスファエ・ジファーが病気で欠場したのは残念だったが、私の指導した3選手が五輪上位独占するのを見たかった。アベラとは五輪前から疎遠になってしまったが、来春の琵琶湖マラソンにT。トラ、T.ジファーの良い走りを見せることができるだろう“と結んだ。

(↑講談社・陸上競技社・月刊陸上競技誌2001年1月号掲載)
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