【ハイレ】

世界長距離王国、エチオピアが燃えた

エチオピア陸連は、シドニー五輪に800mからマラソンに男女総勢25名の選手を送った。その結果、金4個、 銀1個、銅メダル3個、4位入賞3人、6位入賞3人の史上最高の成績を上げた。予選落ちは将来性ある若手選手 3人だけ。メダル獲得率33%、入賞率60%以上、世界に、『長距離王国エチオピア』を鼓舞した。 最初の金メダルは、大会4日目ハイレ・ゲブレセラシエが1万mで2連勝を達成した。その日、エチオピアの首 都・アジスアベバの若者は道路に飛び出し、踊って祝福した。大会8日目の女子1万mは、最後の400mを60 秒、男性顔負けの驚異のスパートを放ったデラルツ・ツルが優勝し、ゲテ・ワミが2位。同日の男子5000mで ミリオン・ウオルデイがゴール寸前の逆転激でよもやの優勝。そして饗宴フィナーレは、ゲゼハン・アベラの32年ぶりのマラソン優勝で締めくくった。政府はヒロイックな活躍をした選手を迎えるために、エチオピア航空特別機をシドニー飛ばした。機がアジスアベバから300km付近の上空に近づくと、ミグ23戦闘機3機が出迎えて エスコート飛行。無事にタッチダウンした特別機に、前夜から待機していた出迎えのファンから大歓声が沸く。厳重な兵士のエスコートで、沿道に立錐の余地もなく埋まった人垣をぬって、空前な凱旋パレードが挙行された。メ スケル広場まで8km、所要5時間!!。この日、官公庁、学校も勝手に閉鎖。われらの英雄を一目見たさに広場 に集結した観衆50万人以上。押しつぶされて2人の死者、重軽傷者多数続出した。 エチオピアを訪れたのは11月半ば。五輪チームは解散して完全休養中だが、選手は軍用機で地方歓迎パーテイに飛び歩かなければならない。この時期、協会は新たなクロカンシーズン、世界室内選手権大会に向けてのターゲットを検討中だった。

シドニー五輪1万m決勝ゴール。
ハイレ左、右ポール

『生きた伝説のランナー』ハイレ・ゲブレセラシエ 絶望的な足の故障を乗り越えて

ハイレと気軽に話すようになってから、かれこれ6年以上になる。1万mで93年世界選手権から無敗、大試合で6連勝。5000m、1万mなどで驚異的な世界記録を15回更新(注:これは故エミール・ザトペックの18回 に次ぐ史上2番目の快挙。)1万mで五輪2連勝した史上稀な小柄の偉大なランナーだ。いつどこで逢っても笑顔を絶やさず、いつ電話しても声のトーンはこれっぽちも変わったことがない平常心の持ち主。だが、そのクールな 男がシドニー五輪前、かつて全く経験しなかった絶望的な窮地に立たされた。その事情を知る人は少ない。 「シドニー五輪に向かったのは、レースに出場することではなく、エチオピア選手のバックアップとスポンサーの プロモーションが目的だった。ジョッグどころか歩くのにもふくらはぎ、かかとに痛みが激しく、とても走れる状 態ではなかったので、五輪出場はほぼ諦めていた。事の起こりは、8月の2回目の欧州遠征中だった。ロンドンGPは問題が無かったが、チューリッヒGPの練習中に痛めた右ふくらはぎと、特に、着地する時のかかとに激痛がくる。歩くにも痛く、エチオピアに帰ってからも一向に痛みが引かなかったので、8月の半ばから五輪までジョッ グもまともにできなかった。こんな経験は始めて、一時はパニック状態だったね。焦るばかりで、足の状態は一向 に回復の兆しはなく絶望的な状態だった。ぼくの女房アレム『シドニーで走りたい気持ちも判るが、あなたはすでに五輪の優勝経験がある。まともに走れないようなら参加すべきではないだろう』と、言った一言が 気持ちを楽にしてくれた。レースの出場を諦め、義務でシドニーに行った。それまでは、なにがなんでも参加して 走らなければならない義務感でガチガチだったからね。しかし、いざ選手村に入って陸上競技が始まると、選手の性(笑いながら)ぼくの足がどうなっても良い。男子1万mが最初のエチオピアメダル獲得チャンス。やってやろ う!って猛烈に走りたい意欲に駆られた。例え、あそこでぼくが負けても、ぼくの足の状態を知っている同僚は、 ぼくがベストを尽くせば選手全員に刺激を与えモラル高揚するのではないかと考えた。もちろん、リスクはあっ た。コーチも、同僚も無理するなといってくれたが、ある程度の覚悟で行動しなければなにも起きない。予選が終 ってみると、思いのほか痛みがない。直ぐに楽観的になって『オヤッ?これはいけるかな?』と、内心 ほっとしたことは確かです。ぼくは基本的に、近代的な薬は信用しない。自然であることが最も重要だと考えるほ うだから、手術なども好きになれない。予選から決勝まで中2日、ひたすら休養した。決勝でポ−ル・タガートと の対決は、やはり不安が残った。ポールも最高の調整で必死に、最後のチャンスに初優勝を狙ってくるだろう。ぼ くは約40日以上の練習ブランクからくる体力不足で、かれらのペースについて行けるか?先頭集団に付けても最 後のスパートに全力疾走が可能か?足がどこまで持つか?不安材料ばかりで頭がいっぱいになってきた。 レース前、チームメイトのメズゲブに、『われわれが勝負する選手はポールただ一人。ほかの若いケニヤ 選手はそれほど怖くない。絶対に先頭から離されるな!』と指示した。シドニーのスタジアムは,、柔らかい トラック、勝つことを目的にした展開なのでスローペースを予想した。思ったように前半13分45秒程度で通 過。後半も適度なイーブンペースだったのが幸いした。最後の2週を残して、『今日のレースは勝てた』と思った。しかし、残り180mあたりでポールが『アッ』とした瞬間スパート。ぼくはホー ムストレートが勝負だと思っていたから、完全に虚を付かれたね。一瞬『やられた! 負ける!』と思 ったね。反射的にポールを追っていたが、『足よもってくれよ!』と祈り、悪い予感も頭を掠めた。でも、アスリートの本能だろう。なにもかも忘れて全力でポールを追った。最後まで諦めずにかれを捕まえ、抜くこ とだけの必死の闘争だった。『ゴール手前30辺りでポールがグーんと近づいてきた。残り10mで勝てると思った ね。不安だった体力、足も不思議ともってくれた。こんな苦しいレースは始めてだった。素晴らしいレースになっ たポールの健闘を称えたい。この勝利を神に感謝したい』ハイルの妻アレムは、ポールがスパートした瞬 間、TVを怖くて見ていられずハイレの勝利の瞬間を見逃してしまったという。 ハイレが獲得した2個目の金メダルも、アジスアベバの北、イントト・キダムクタの聖マリー教会に奉納された。 その理由を尋ねたが、特別の思いがあるのだろうか、ハイレには珍しくまともに応えない。ユーカリの茂る山に向 かって伸びる道路は、『古刹』の雰囲気が漂う教会と修道院前で止まる。夕方、近くの信心深い村人たちの参拝で境内は一杯になる。ハイレが奉納した2個の金メダルはこの教会の中に鍵を掛けて安置されている。

国民のアイドル、極貧国に夢と希望を!

11月のある日。 約束の時間きっちりに、ハイレがスチュットガル世界選手権大会で優勝した時の副賞、メタリックカラーのメルセデスベンツを駆ってホテルまで迎えにきてくれた。シーズンオフのため朝練習もなく、1年のうちで今が最もリラ ックスすることができる時だ。高台のホテルから降りて、道路交叉のため一時停車すると、たちまち物乞いが窓際に寄ってくる。『ハイレ、ハイレ』と親しみを込めて呼ぶ。ハイレは慣れたもの、ギアーシフトバーの 側に山ほど小銭を用意してある。一人一人に丁寧に手渡す。ハイレは物乞いを拒否しない。理由を訊ねると、 『ぼくは、少しでも貧しい人に援助をする義務があるからね』と、笑顔が帰ってきた。街中に巨大なハイレの走る壁写真、アムハリック語のスローガン『イチャラル』(やればできる!)がシドニー五輪後出現した。アジスアベバ商工会議所が、ハイレの偉業、名声に頼って、国家建設意欲を市民に訴えている。とは言え、現実の生活はそんなに甘くはない。エチオピアの二転三転した国政、東部の旱魃、隣国エリトリアとの戦争後遺症もあって、世界でも極貧国のひとつだ。失業率は65%とか、大学入学は100人に一人、卒業しても職にありつけるのは50%、絶対的な慢性的な職不足。大卒の月給料が500ビル(1ビルは約14円)。店員は月給が 約200から300ビルという。 ハイレは言う。「今回成績が良かったので、政府は異例な処置をとった。選手8人、コーチ、アシスタントコーチ 10人めいめい500平米の土地(場所にもよるが、土地価格は市内なら15万ビル)現金で7万ビルの褒賞を与え た。この額、大卒初任給の12年分に相当する。この政府の具体的な選手待遇は伝統的なことだが、、われわれの後 続に非常に強いインパクトを残す。エチオピアの誰もが、走る努力と才能でゼロから国民的な英雄になれるチャンスがある。ハイレ・セラシエ皇帝の保護によって、アベベ・ビキラから始まった長距離の伝統は、途切れることな く継続されている。これがエチオピア選手の強い秘訣のある部分でしょうね」


ハイレ、アフリカ大陸の英雄、『裸足の王様』
アベベ・ビキラの銅像の前で
市内最大のメスケル広場で、『裸足の王様』アベベ・ビキラを伴って来日したこともある最後の皇帝、 ハイレ・セラシエの葬儀が挙行された。当時の皇帝は、国内の封建的支配体制に手をつけず、華やかな外交政策で 注目された。1974年9月、帝政から社会主義国家を目標に、軍事クーデターによって皇帝は暗殺され3000 年皇統連綿に終焉を遂げた。あれから25年目、有志によって正式に王家墓地に埋葬された。カラフルなコプト派キリスト教の司祭、生き残りの皇族、ハイレ・セラシエ皇帝を生き神様として奉るジャマイカのラスター、故ボブ・マリーの未亡人、ヴェテラン兵士、親皇帝派の人達が数百人、最後の別れを偲んだ。ハイレも静かにVIP席 に混じった。しかし、大部分の国民は、4分の一世紀前のおぼろげな皇帝の記憶を呼び起こしたに過ぎない。長い 式が終り、皇帝の棺は真っ黒な煙を吐くオンボロトラックに乗せて市内を巡回後、教会に向かった。行列を見送り ながら、ハイレは「25年の歳月は長いね。見送る人が少なかったのは寂しい。今の若い世代は、皇帝を知るものは 少ないんだね。皇帝は悪いことばかりしたんじゃあないよ」と、チョッピリ悲しそうな表情だった。

ハイレの雄姿が新切手4枚に

ハイレの家は、アジスアベバで最高級住宅地の一角にある。ハイレの妻アレムが迎えた。エチオピアでは人がくると、必ず、飲料水を客に勧めるのも高地で乾燥しているためだろう。喉が乾く。その間、テーブルはサラダ、マト ン、牛肉などの煮たもの、パン、インジャラで埋まる豪勢な昼食が用意された。アレムの姉、昼寝から起きてきた 長女のエデンも一緒に、楽しく、賑やかな昼飯。それからハイレは、エデンを相手にして、数メートルに及ぶ長い ファックスを読む。携帯電話がひっきりなしになる。

昼食後、ハイレはスーツから皮のブルゾンに着替え、五輪後、市が約3kmの大通りを『ハイレ・ゲブレセラシエ アベニュー』と命名した。その通りに、近代的なハイレの貸しビルがある。ハイレが車から降りる と、いろんな人とエチオピア独特の長い挨拶を交わす。その中に、マラソン五輪銅メダルを獲得したテスファヤ・ トラ、彼の友人テスファヤ・ジファーもいた。満杯の駐車場コンクリート壁ひとつを隔てて、汚臭を放つ川、段ボ ール、プラスチック、廃材で作られた粗末な小屋が目に入った。ハイレのビルの最上階『ペントハウス』のテラスからの眺めは、正しくも「天国と地獄」だ。ハイレに現実のエチオピア問題を軽く突込みをいれた。
「イデオロギー、政治の世界は、ぼくの力ではどうすることもできない。しかし、ぼくが走ることによって、エチ オピアの人になんらかの夢と希望を与えることができる。エチオピア人の模範になるような努力は惜しまない」 元銀行員だったハイレの長兄と打ち合わせ後、ハイレの第2ビルの工事現場に向かった。そこにもハイレ兄弟二人 が現場監督。かれの兄弟を紹介されるたびに、エチオピア大家族制度に戸惑う。とても紹介された顔、名前は覚えきらない。例えば、エチオピアでは珍しくない10人兄弟がいるとしよう。結婚するとかれらの配偶者の数も家族 の一員。そして、子供ができるとたちまちに家族は天文学的な数に増えるのだ。しばらくハイレは工事関係者と談笑。夕食を招待されたが辞退、再びホテルに送ってくれた。

エチオピアの民族衣装を着たハイレと3人姉妹

次の日、ハイレは忙しかった。9時からドイツ大使館に行きヴィザ申請。10時、ホテルで合同、事務所によりアレム姉妹、兄を伴って国連会館へ。11時、郵政大臣出席のもと、ハイレ記念切手発行記念パーテイー。4枚の新 切手が披露された。大臣の挨拶が終り、方々でハイレを過去も記念撮影。正午、事務所に行き書類に目を通してから、兄の家で遅い昼食。久し振りに、ハイレの母親親代わりの姉2人と再会した。14時、フィンランド領事館で ヴィザ申請。通常なら、山のような書類を提出、少なくとも発給までに一週間掛かる。ところが、ハイレはVIP 待遇。その場ヴィザは発給された。ここでも領事館の人達の要望で記念写真を撮影。また、事務所に戻り書類に目 を通す。16時、飛行場近くのサッカー場で、エチオピア航空表彰式にアレムと出席。航空関係者数百人のの出 席、バンドの音楽で盛り上げる。ハイレは、家族共にファーストクラス無料10回分の航空券を授与。ほかの選 手、コーチ陣も恩恵を受ける。ハイレが選手を代表してスピーチを始めた頃、小雨が降り、空に美しい虹が輪を描 いた。その夜、ハイレ夫妻は、知人の結婚式に出席した。
改めて、エチオピアにおけるハイレの存在の偉大さを認識できた。かれの選手の業績も然ることながら、圧倒的に ほかのどの選手とも『格』が違う。アベベ・ビキラ以上に『生きた伝説のランナー』の人である。
「レースに勝つことより、常勝を続けるのはさらに難しい。自分に常勝を義務付けて休むことなく高い目的意識、 テンション、猛練習を続行ですることが難しくなってくる。体力的な問題ではなく、心理的な疲労かもしれない。 これらのどれが欠けても、良い結果は伴わない。ぼくのキャリアは、クロカンでは今ひとつ思ったような結果が出 せなかったが、トラックではおおよそ満足な成績を残せた。だから、次回世界選手権大会に向けて、新たなモチベ ーションが持てそうにもない。新鮮な刺激、意欲が今まで以上に強く沸かないだろうね。そのためにも、足の状況 が良ければ新しい挑戦、マラソンに転向するしたい」と断言した。
その2日後、スイスに飛び3日間精密検査を受けた。11月16日、チューリッヒの南150km、スイス時計で 有名な街なマグレンゲンにあるスイス国立スポーツセンターでカカト軟骨削除手術を受けた。電話の向こう側か ら、いつも変わらないトーンが聞こえてきた。『フィンランドで治療を行なう予定を急遽変更。ここの医者に、手術は簡単、手術以外に治療はありえないと納得させられてね、大嫌いな手術を受けた。わずか一時間で総てが終了。総て順調、心配は全くない。11月一 杯ここに滞在、その後、オランダでリハビテーションしながら様子を見ることにした』

(↑講談社・陸上競技社・月刊陸上競技誌2001年1月号掲載)
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