【カリブのスプリンター王国、ジャマイカ、 "生きた伝説の人"マッキンレーから"稲妻"ボルト少年 】 | ||||||||||||||||||||||||||
読者は「ジャマイカ」と聞いて、一体なにを想像するだろう?青い海、ヴァカンス、レゲエ?一世を風靡した"神様" ボブ・マレーは、ジャマイカの名前を世界に広げた。 今より半世紀前、ヘルシンキ五輪で「The Great Four」と呼ばれる偉大なジャマイカ陸上競技の先駆者たちが、4x400mリレー世界新記録で優勝した。カリブの小さな島、ジャマイカの存在を鼓舞した。 1962年、ジャマイカ独立を記念して建築された、国内ただひとつの国立スタジアムを修復して、第5回世界ジュニア選手権大会が首都キングストンで開催された。この機会を利用して、当時のメンバーのひとり「生きた伝説の人」、ハーバート・ヘンリー・マッキンレー(80才)から、各世代に活躍した人物にインタビュー、ジャマイカの歴史的背景から「短距離王国探求」を試みた。 ジャマイカは人口250万。南北約230km、最も幅の広いところで約90kmの平坦の少ない大小無数の山々がある島。キューバ、ドミニカ共和国についで、カリブ海で3番目の大きさ。マイアミからキューバ上空を飛び越えるとわずか1時間半の飛行距離だ。 1494年5月4日、コロンバス2度目の航海で島の北"オチョリコ"に上陸、スペイン領土を掲げた。先住民のインデイアン"タイノ"語で、"ジャマイカ"は「水と森の土地」の意味。ハンモック、ハリケーン、タバコ、バーベキュー、カノーらのわずかに彼らの言葉が英語に残されただけで、原住民は虐殺されたか、持ち込まれた病気で全滅した。
今から半世紀前、ジャマイカ短・中距離の偉才軍団、マッケンレー、ジョージ・ローデン、アーサー・ウイント、レスリー・ライング、ラビーチ兄弟らが五輪、中央アメリカ&カリブ大会、世界中の競技会で「黄金のスプリント」を披露した。 ハーブは史上最強のジャマイカン「カルテット」と共に,ロンドン、ヘルシンキ両五輪で100(52年2位),200(52年4位),400m(48,52年とも2位)、4x400mリレー(52年優勝)の総てにファイナリスト。この記録は現在でも世界で破られていない。現役を終えたハーブは、ジャマイカに止まり後輩の指導に半生を尽くした。 東京五輪800mで3位になったジョージ・カーを始め、モントリオール五輪200mで優勝したドナルド・クオーリー、400mのバートランド・キャメロン、ジャマイカ史上最大の女性スプリンター、マリン・オッテイ、グソウル五輪200m2位のレース・ジャクソン、バルセロナ五輪100,200mで2位のジュリエット・カスバートらの、世界的な選手を発掘、育ててきた名コーチでもある。脳溢血のため、歩行、話すのに少しの障害が見られるが、毎日スタジアムに足を運びジュニア世界選手権を最上段の席で熱心に観戦していた。このインタビューは、かれの自宅で行われた。 ―ジャマイカの陸上競技はどのように発展してきたのですか?
ハーブ―(笑う)遺伝的かどうか知らないが、ウイント、ローデンは2mぐらいあって足も長く大きなストライドだった。 ―どのようにして陸上競技に興味を持ち出したのですか? ハーブ―高校生のころ"おまえは走るのが速いのでレースに出ろ!"と言われて、一度も走ったことのない400mを走らされて勝ってしまったからでしょう。 (注:ハーブは38〜41年全国高校選手権"Boy's Champs"いわば日本の"インターハイに該当する大会で上位進出はしたが勝てなったらしい。しかし、100,220,440ヤードに出場したオールラウンドスプリンターとしての才能を見せたという) ―あなたの才能を伸ばしたのは、アメリカの留学からですか? ハーブ―そうだろうな。ジャマイカ国内に練習できる設備、コーチなど揃っていなかったし、全国大会を見にきていたボストンカレッジのサック・ライダー・コーチの薦めで、わたしがカリビアから最初のアメリカの大学スポーツ奨学金を授与できたのです。 ―アメリカ留学の成果は? ハーブ―わたしが47年イリノイ大学生の時、440ヤードで46秒3の世界新記録をバークリーで樹立。48年には440ヤードで46秒0、400mは当時"壁"と言われた46秒を破る45秒9のカリブ海出身者が史上初めて世界記録の樹立したことなどがある。
―あなたに関する有名な3つのエピソードがあります。ひとつ、ロンドン五輪400mで優勝確実と言われてウイントに敗戦、この五輪最大の番狂わせが起きたと言われました。4年後も同僚のローデンに400m(写真判定)で勝てなかった。次に、ヘルシンキ五輪100m決勝の微妙な写真判定について、ジャマイカでは判定をごまかされたと言う人がいる。最後に、あなたは1600mリレー第三走者で、15m前を先行するアメリカチームを抜き返した劇的な走りでジャマイカ優勝貢献しました。事実はどうなんでしたか? ハーブ―最初の質問について、400mではままあることで、ロンドン五輪決勝はウイントが外側コース。いつ抜かれるかと思い必死に走ったら、勝ってしまったパターン(笑う)。ヘルシンキ五輪の時、もわたしはローデンより2レーン内側だった。ローデンは事実調子もよく強かったが、わたしは400mで絶対に勝つ予想に反して五輪連敗したというわけだよ。100m決勝は写真判定の結果、わたしが2位。私は判定に間違いはなかったと思うが、世間の人達の同情がわたしに集まって、いつのまにか判定はミスだったと言うわけですね(苦笑)。しかし、このレースは僅差だった。 ―『ハーブがひとつも優勝できないので、リレーは最後の優勝チャンスに特別なパワーが生まれた』とまで言われていましたね。 ハーブ―それは違うね(笑う)。ロンドン五輪でもわれわれが優勝できると予想されたし、われわれも自信があったがアメリカに負けた。ヘルシンキのメンバーは同じでも、走る順番をスタートのローデンをアンカーに変えて、ウイントをスタートにした。ところが、第三走者のわたしがバトンを受ける前、ウイント、ライングらが、予想外にアメリカが12、3m程離されてきた。一瞬、『こりゃイカン!けそうだ!?』と思ったが、ガムシャラに走っただけ。相手は400mhの優勝者チャーリー・ムーアー。50m走っても距離は変わらず。『アア!負ける!』と独り言を考えながら走ったね。残り200m手前で、イリノイ大学のジョンソン・コーチの言葉『リードされていたら、焦らないで物を食べるように少しずつ距離を縮めることだ!』を思い出した。観衆の声援が次第に大きくなる。ホームストレッチに入ると、ムーアーとの距離がグ〜ンと接近してきた。ローデンにバトンを渡す時は二歩ぐらい追い抜いてしまった。ローデンがその距離を最後まで維持したので、ジャマイカは世界新記録3分03秒9で無敵アメリカを破ったのです。ただ、全力で走っただけ。 ―後にも先にもジャマイカだけが現在でも1600mリレーで世界記録をアメリカから奪い勝った。あなたは44秒6を記録されたと聞いていますが、現代のトラック条件で走れば・・"何秒で"とは考えたことがありますか? ハーブ―あまり意味がないので考えたことはない。
ハーブ―長い間ジャマイカのために尽くしてくれました。新しい国籍で競技を続けることを彼女と話したことがありますが、これは彼女自身の決断と問題です。故障をしたと聞いているが幸運を祈ります。 ―当時のメンバーとの交流はありますか? ハーブ―もちろん!ウイントはジャマイカで外科医として働いていたが、英国ジャマイカ大使に任命されたこともあったが92年亡くなった。ローデンはカリフォルニヤで外科医だが不動産業をしている。(かれの名刺には往年の走っている写真が刷り込まれている)ライングはプエルトリコで農業しているが、近くフロリダに移住するらしい。 ―最後に、あなたにとって"陸上競技"とはなんですか? ハーブ―わたしにとっての陸上競技は、"自分の才能を認識、その可能性を伸ばす事に掛けた努力のプロセス"だった。結果として、非常に多くのことを経験、学ぶチャンスを得ることができました。 ジャマイカ人は先天的な短距離才能がある
(Photo.ハーブの業績を記念して開催された展示会場でオッテイの写真の前で)
女性短距離パイオニア的存在 ヴィルマ・B・チャールトン(58才、西インデイーズ大学、教育学部講師、64、68、72年五輪100m出場) 「ジャマイカは昔から男女差が比較的少ない国。義務教育制ではないが、教育は比較的盛んなために、学校スポーツが男女と共に発達しています。ですからジャマイカのスポーツ発展を支えるのは、中・高校の学校スポーツです。欧州スタイルのクラブ組織があるのは、クリケットかサッカーでしょうが、初期の陸上競技、要するに子供達に陸上競技に興味を持たすきっかけは学校のコーチに依存していますね。伝統校になると、中学生から全国にスカウトを送って、才能ある生徒獲得をするケースがあります。この伝統ある全国大会、地方の大小のレースがジャマイカ陸上競技界の根底をなしているのです。ジャマイカの陸上競技は、伝統的にアカデミックのスポーツですね。わたしの仕事は、将来、体育教師になる人達の講師をしています。この人達が、やがて全国に散って学校スポーツ、体育の指導に当たる分けです。わたしも高校の全国大会で才能を認められて、やがて五輪に出場することができました。でも、東京五輪が最高でした」 短距離は基本練習に忠実でなければならない ロナルド・クオーリー(51才、72年大会から連続5回五輪出場、"カーヴの魔術師"と呼ばれ、モントリオール五輪200m優勝。国内でマッケンレー、オッテイに並び尊敬されている。68年、17才のジャマイカ選手権兼トライアル200mで2位、88年、20年後、国内選手権兼ソウル五輪トライアル200mで2位。息の長い選手だった。) ―全国高校選手権大会の総ての大会100m記録を塗り替えた史上最高の天才スプリンターと呼ばれますね。 ドン―(はにかみながら)まあまあ強かった。始めは14才ごろまでサッカーに夢中だった。そのころサッカーから少しずつ、陸上に入っていった。スプリントは大好きだった。 ―ジュニア世界選手権200m優勝者ボルトは、クオーリー二世になる可能性はありますか?
―選手の素質は? ドン―ジャマイカに素質あるものが多いが、それだけでは大成しないでしょう。若者が興味を引くことが山ほどあり過ぎますね。伝統的にジャマイカ陸上選手は、田舎出身者が多いのです。国内の企業がスポンサーを拒否、高校、大学の奨学金制度がない国状です。また、ジャマイカは優れた設備がない。ジュニアレヴェルまでのコーチはたくさんいるが、シニアのコーチが非常に少ないのも欠点です。陸上競技に若い夢を賭けるようなことは非常に少なくなったのも事実です。 ―あなたは5回連続五輪出場しました。現役を長く続けられた秘訣は? ドン―走ることをエンジョイできたことです。素晴らしいコーチの元に、毎年シーズンを迎えるとき誰も同じように常に基本に忠実な、イロハの練習からスタートしています。なぜかと言うと、スプリントは総てが瞬間的なモーションのため、正しい基礎的な繰り返しが必要だからです。 ジャマイカ短距離選手は世界の一流選手だが、勝てない。 バートランド・キャメロン(43才、ジャマイカ・スポーツ・インステイチュート、コーチ、400m最高記録44秒50、第1回世界選手権優勝。80、84年五輪400mで優勝確実されたが、荷度とも悲運な故障で決勝レースを棄権した)
(Photo.左、カメロン、ジュニア世界選手権200m優勝者ボルト、右、ホアントレア) オッテイの活躍が刺激的だった グレース・ジャクソン(41才、ロス五輪から連続3回五輪出場、ソウル200m2位)
常に、先人の活躍と比較されて成長する ジュリエット・カスバート(38才、モスクワ五輪から連続5回出場、最高記録100m10秒83,200m21秒75、バルセロナ五輪100,200mで共に2位)
ジャマイカはスプリンター「生産工場」だ! ジミー・カーネギー(64才)ジャマイカの著名なスポーツジャーナリスト 「ジャマイカ短距離選手が世界のトップレヴェルに踊り出たのは、ジャマイカが大英帝国の植民地時代"West Indies"のころ。それまで無名なジャマイカが、突然、1948年ロンドン五輪でデビュー,男子100〜800mの種目に4人、アーサー・ウイント(外科医、ジャマイカ英国大使、1920年生まれ、故人)、ハーバート・マッケンレー(元協会会長、コーチ、80才)、レスリー・ライング(77才、プエルトリコ在、農業)、ジョージ・ローデン(80才、外科医、アメリカ在)らが、"ジャマイカ旋風"を巻き起こしたからです。続く、52年ヘルシンキ五輪でも健在の4人が、無敵と言われたアメリカ4x400mリレーに競り勝ち世界新記録で優勝した。このとき以上のチームは、現在でも超えることができない史上最強チームです。このときから、ジャマイカは五輪、世界選手権、パンナム、中央アメリカとカリビア大会で、多分、世界的な短距離選手をアメリカについで世界で最も多く生んでいる国でしょう。これを私はスプリンター"生産工場"と呼んでいます。(笑い)」 「ジャマイカが強くなった背景は、1910年から高校生の男子を対象にした"Chumps"と呼ばれ国内のいたるところで、現在はもちろん女子も参加、毎週のようにどこかで開催されています。この大会はジュニア世界選手権大会より観客の熱狂度は高く(笑う)家族、親戚、友人、コミュニテイ全体で応援にゆきます」
「しかし、あるエポックで天才的な選手が活躍することができても、後続が続かなければ伝統を築くことはできません。ジャマイカ選手が中央アメリカとカリビア大会でウイントが800mで優勝したのが1938年です。それまではジャマイカ選手が国際大会で活躍する力はありませんでした。ジャマイカ選手がロンドン五輪でウイント、マッケンリーが400mで1,2位、ウイントは800mで2位、4x400mリレーでも決勝に進出。小さなカリブ海の植民地の選手が、宗主国で世界の選手を相手に痛快な大活躍です。ジャマイカ国民が多いに溜飲を下げた強烈なインパクトを与えた劇的な瞬間だったのです。特に、マッケンレーは国際大会で大活躍、51年にアルゼンチンで開催されたパンナム大会で100,200,400mの3種目でいずれも3位。強豪のアメリカ選手と競り合っている。ヘルシンキ五輪は、ローデン、マッケンレーが400mで1,2位、マッケンリーは写真判定の結果100mでも2位。ウイントは激戦の末、前回に続きメル・ウイットフィールド(アメリカ)の後塵を浴びて2位。大会のハイライト4x400mリレーの第3走者。大きくリードするアメリカ選手を追い抜く、後世に語り継がれる超人的な走りで世界新記録を樹立して優勝した原動力になったんです」 「かれらの"偉大な4人"の金字塔は、ジャマイカの陸上競技"精神的な柱"を深く植え付けたのです。確実に後世に伝えられ、若い世代の永遠な精神的な支え、誇りと目標なのです。偉大さのプレッシャーに、時には後継者が育つことが難しいときもありますが、ジャマイカは短距離選手の人材にはこと欠きません。しかし、素材は豊富なのですが、素質を大きく伸ばすだけの環境が国内に存在しないのです。国内の施設は古くて十分ではない。スポンサーは望めない。経済的なバックアップなどは、アメリカのスポーツ奨学金に依存しなければなりません。また、選手生活を終えてもジャマイカでは、並の選手では教育がなくては生活ができないために海外移住者が多いのです。ウイント開業医をしていたが、晩年、英国のジャマイカ大使を引退後92年亡くなった。ローデンはカリフォルニアで開業医師だが、不動産業をしていた。ライングはプエルトリコで農場を経営。ハ−ブだけが、ジャマイカに残った。ある次期に生命会社に勤務、高校の体育の教師をしたこともありますが、半世紀、ジャマイカの陸上競技の発展に尽くした人です。ジャマイカではハーブは史上最高の選手と尊敬されています」
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(↑講談社・陸上競技社・月刊陸上競技誌2002年10月号掲載)
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