【カリブのスプリンター王国、ジャマイカ、 "生きた伝説の人"マッキンレーから"稲妻"ボルト少年 】

読者は「ジャマイカ」と聞いて、一体なにを想像するだろう?青い海、ヴァカンス、レゲエ?一世を風靡した"神様" ボブ・マレーは、ジャマイカの名前を世界に広げた。

今より半世紀前、ヘルシンキ五輪で「The Great Four」と呼ばれる偉大なジャマイカ陸上競技の先駆者たちが、4x400mリレー世界新記録で優勝した。カリブの小さな島、ジャマイカの存在を鼓舞した。

1962年、ジャマイカ独立を記念して建築された、国内ただひとつの国立スタジアムを修復して、第5回世界ジュニア選手権大会が首都キングストンで開催された。この機会を利用して、当時のメンバーのひとり「生きた伝説の人」、ハーバート・ヘンリー・マッキンレー(80才)から、各世代に活躍した人物にインタビュー、ジャマイカの歴史的背景から「短距離王国探求」を試みた。

ジャマイカは人口250万。南北約230km、最も幅の広いところで約90kmの平坦の少ない大小無数の山々がある島。キューバ、ドミニカ共和国についで、カリブ海で3番目の大きさ。マイアミからキューバ上空を飛び越えるとわずか1時間半の飛行距離だ。

1494年5月4日、コロンバス2度目の航海で島の北"オチョリコ"に上陸、スペイン領土を掲げた。先住民のインデイアン"タイノ"語で、"ジャマイカ"は「水と森の土地」の意味。ハンモック、ハリケーン、タバコ、バーベキュー、カノーらのわずかに彼らの言葉が英語に残されただけで、原住民は虐殺されたか、持ち込まれた病気で全滅した。

現在のジャマイカ人の95%は、スペイン植民地から大英帝国(1655〜1962年)時代長期に渡る植民地政策で、西アフリカのガーナ、ナウジェリアから連行した奴隷を砂糖キビ農園で働かせた人たちが祖先だ。 ジャマイカのスポーツ選手は、多方面で活躍をしている。

メイジャーの名野手チリ・デーヴィス、デヴォン・ホワイト、NBAのパトリック・ユーイング、ボクシングのライザー・ルドック、サッカーのレゲイボーイズ、ボブスレー、100mベン・ジョンソン、ドノバン・ベイリー、リンフォード・クリステイ、ドゥワイン・チャンバーズらは、いずれも外国籍だがジャマイカの人だ。

"生きた伝説の人"ハーブ・マッケンレー  土地の人は,老若を問わず80才になったヘンリー・マッケンレーを"ハーブ"と親しみを込めて呼ぶ。

(Phot.キングストン市内の壁絵)

今から半世紀前、ジャマイカ短・中距離の偉才軍団、マッケンレー、ジョージ・ローデン、アーサー・ウイント、レスリー・ライング、ラビーチ兄弟らが五輪、中央アメリカ&カリブ大会、世界中の競技会で「黄金のスプリント」を披露した。

ハーブは史上最強のジャマイカン「カルテット」と共に,ロンドン、ヘルシンキ両五輪で100(52年2位),200(52年4位),400m(48,52年とも2位)、4x400mリレー(52年優勝)の総てにファイナリスト。この記録は現在でも世界で破られていない。現役を終えたハーブは、ジャマイカに止まり後輩の指導に半生を尽くした。

東京五輪800mで3位になったジョージ・カーを始め、モントリオール五輪200mで優勝したドナルド・クオーリー、400mのバートランド・キャメロン、ジャマイカ史上最大の女性スプリンター、マリン・オッテイ、グソウル五輪200m2位のレース・ジャクソン、バルセロナ五輪100,200mで2位のジュリエット・カスバートらの、世界的な選手を発掘、育ててきた名コーチでもある。脳溢血のため、歩行、話すのに少しの障害が見られるが、毎日スタジアムに足を運びジュニア世界選手権を最上段の席で熱心に観戦していた。このインタビューは、かれの自宅で行われた。

―ジャマイカの陸上競技はどのように発展してきたのですか?

ハ―ブ―二つの背景がある。ひとつは大英帝国植民地時代から、クリケット、陸上競技、サッカーが今日まで国内の3大スポーツです。ここでは熱いから長距離はけんえんされる。短距離は、学校教育の一環として好まれた。そして、これまで短距離で国際的な活躍を残してきたからでしょうね。

―ロンドン、ヘルシンキ五輪のあなた方の活躍ですね。

ハーブ―多分、それもあるでしょう。ジャマイカは小さな島ですから、中央アメリカ・カリブ海選手権でウイントが36年に800m、46年に400mで優勝して活躍したのは、私も含めて大いに刺激されたものです。さらに、48、52年五輪で活躍は大きなインパクトになったのは事実です。

―ジャマイカの人達は"遺伝"的にスプリントに向いていますか?

(Phot.ヘルシンキ五輪4x400mリレー優勝)

ハーブ―(笑う)遺伝的かどうか知らないが、ウイント、ローデンは2mぐらいあって足も長く大きなストライドだった。

―どのようにして陸上競技に興味を持ち出したのですか?

ハーブ―高校生のころ"おまえは走るのが速いのでレースに出ろ!"と言われて、一度も走ったことのない400mを走らされて勝ってしまったからでしょう。 (注:ハーブは38〜41年全国高校選手権"Boy's Champs"いわば日本の"インターハイに該当する大会で上位進出はしたが勝てなったらしい。しかし、100,220,440ヤードに出場したオールラウンドスプリンターとしての才能を見せたという)

―あなたの才能を伸ばしたのは、アメリカの留学からですか?

ハーブ―そうだろうな。ジャマイカ国内に練習できる設備、コーチなど揃っていなかったし、全国大会を見にきていたボストンカレッジのサック・ライダー・コーチの薦めで、わたしがカリビアから最初のアメリカの大学スポーツ奨学金を授与できたのです。 ―アメリカ留学の成果は?

ハーブ―わたしが47年イリノイ大学生の時、440ヤードで46秒3の世界新記録をバークリーで樹立。48年には440ヤードで46秒0、400mは当時"壁"と言われた46秒を破る45秒9のカリブ海出身者が史上初めて世界記録の樹立したことなどがある。

―アメリカ留学のパイオニア、その後が続いたのですね。 ハーブ―実際、ロンドン五輪でジャマイカ選手の活躍の影響があったからでしょう。その後、ローデン、ライング、女性で始め、カリビアから最初の女性陸上選手シンシナ・トンプソンらが、アメリカ留学できるようになったのです。ウイントはロンドン医学生だった。

―国内に才能ある選手がいても、才能を伸ばす環境が整っていないと聞いていますが・・・・?

ハーブ―昔よりは良くなっているだろうが、ジャマイカの国民数は300万人程度の小さな国です。62年独立した時に建てられた国立競技場もキングストンだけ。経済的に難しいね。

―52年のジャマイカ史上最強"黄金のカルテット"、それ以上の強い選手が出ませんね。

ハーブ―ウ〜ン(笑い)そうとも簡単にいえないだろうよ。当時のわれわれの活躍は、ジャマイカにとって総てが初めての衝撃なこと。強烈な印象を残しているともいえるが、あれ以後から各時代におおくの優秀な選手が出ているよ。

 (Photo.ハーブの自宅ベランダで)

―あなたに関する有名な3つのエピソードがあります。ひとつ、ロンドン五輪400mで優勝確実と言われてウイントに敗戦、この五輪最大の番狂わせが起きたと言われました。4年後も同僚のローデンに400m(写真判定)で勝てなかった。次に、ヘルシンキ五輪100m決勝の微妙な写真判定について、ジャマイカでは判定をごまかされたと言う人がいる。最後に、あなたは1600mリレー第三走者で、15m前を先行するアメリカチームを抜き返した劇的な走りでジャマイカ優勝貢献しました。事実はどうなんでしたか?

ハーブ―最初の質問について、400mではままあることで、ロンドン五輪決勝はウイントが外側コース。いつ抜かれるかと思い必死に走ったら、勝ってしまったパターン(笑う)。ヘルシンキ五輪の時、もわたしはローデンより2レーン内側だった。ローデンは事実調子もよく強かったが、わたしは400mで絶対に勝つ予想に反して五輪連敗したというわけだよ。100m決勝は写真判定の結果、わたしが2位。私は判定に間違いはなかったと思うが、世間の人達の同情がわたしに集まって、いつのまにか判定はミスだったと言うわけですね(苦笑)。しかし、このレースは僅差だった。

―『ハーブがひとつも優勝できないので、リレーは最後の優勝チャンスに特別なパワーが生まれた』とまで言われていましたね。

ハーブ―それは違うね(笑う)。ロンドン五輪でもわれわれが優勝できると予想されたし、われわれも自信があったがアメリカに負けた。ヘルシンキのメンバーは同じでも、走る順番をスタートのローデンをアンカーに変えて、ウイントをスタートにした。ところが、第三走者のわたしがバトンを受ける前、ウイント、ライングらが、予想外にアメリカが12、3m程離されてきた。一瞬、『こりゃイカン!けそうだ!?』と思ったが、ガムシャラに走っただけ。相手は400mhの優勝者チャーリー・ムーアー。50m走っても距離は変わらず。『アア!負ける!』と独り言を考えながら走ったね。残り200m手前で、イリノイ大学のジョンソン・コーチの言葉『リードされていたら、焦らないで物を食べるように少しずつ距離を縮めることだ!』を思い出した。観衆の声援が次第に大きくなる。ホームストレッチに入ると、ムーアーとの距離がグ〜ンと接近してきた。ローデンにバトンを渡す時は二歩ぐらい追い抜いてしまった。ローデンがその距離を最後まで維持したので、ジャマイカは世界新記録3分03秒9で無敵アメリカを破ったのです。ただ、全力で走っただけ。

―後にも先にもジャマイカだけが現在でも1600mリレーで世界記録をアメリカから奪い勝った。あなたは44秒6を記録されたと聞いていますが、現代のトラック条件で走れば・・"何秒で"とは考えたことがありますか?

ハーブ―あまり意味がないので考えたことはない。

―この優勝の影響でジャマイカの人は、リレーが好きなんですか?

ハーブ―イヤ、そうではないでしょう。学校対抗戦で選手と応援のチームワークな一体感など、伝統的なもの。

―ヘルシンキ五輪後、オーストラリアなどで"プロ陸上"などに参加しましたが、あれはどんなものでしたか、

ハーブ―オーストラリアから最終的なオファーは良かったので参加。実際、このレースを計画した人達も、人や馬とのハンデイキャップをつけたレースで、最初のころは物珍しさで開催されたが長続きはしなかったね。

―長いコーチ歴で見た世界最高の選手は誰ですか?

ハーブ―(しばらく考えて)多分、マリン・オッテイでしょうね。彼女の素晴らしい素質は疑いのないもの。かなりの激しい気性の持ち主だが、常に暖かいバックアップ、『勝てるんだ』と言う自信を持たせることが必要でしたね。

―オッテイは今年からスロヴェニア国籍でレースに出るようになりますが、それについてどう思いますか? 

(Photo. 国立競技場前のジャマイカアスリート像の前のハーブ)

ハーブ―長い間ジャマイカのために尽くしてくれました。新しい国籍で競技を続けることを彼女と話したことがありますが、これは彼女自身の決断と問題です。故障をしたと聞いているが幸運を祈ります。

―当時のメンバーとの交流はありますか?

ハーブ―もちろん!ウイントはジャマイカで外科医として働いていたが、英国ジャマイカ大使に任命されたこともあったが92年亡くなった。ローデンはカリフォルニヤで外科医だが不動産業をしている。(かれの名刺には往年の走っている写真が刷り込まれている)ライングはプエルトリコで農業しているが、近くフロリダに移住するらしい。

―最後に、あなたにとって"陸上競技"とはなんですか?

ハーブ―わたしにとっての陸上競技は、"自分の才能を認識、その可能性を伸ばす事に掛けた努力のプロセス"だった。結果として、非常に多くのことを経験、学ぶチャンスを得ることができました。

ジャマイカ人は先天的な短距離才能がある

バイロン・T・ラビーチ(76才)NY在、100ヤード9秒2、ヘルシンキ五輪準決勝。ロンドン、ヘルシンキ五輪100、200m3位のロイド・ラビーチ(パナマ国籍)の弟、バイロン、サム、ロイドの3人短距離選手。

「今年はヘルシンキ五輪から50年目、当時の偉大なジャマイカ陸上選手の業績を残すために出版を考えている。陸上競技を通して、世界を広く見聞でき多くの人達と現在まで交流できることは素晴らしいことです。われわれは、先天的なスポーツの才能、要するに、遺伝的なスプリントの才能があると思うね。見て御覧なさいよ。ジャマイカ出身者はいろんなスポーツ界で活躍しているし、スプリントでは世界的な選手を何人も輩出しているでしょう。もちろん練習も大事なことは言うまでもないが、スプリントは生まれ持った素質と努力の組み合わせだろうな」

(Photo.ハーブの業績を記念して開催された展示会場でオッテイの写真の前で)

ハーブはわたしの恩人

ジョ―ジ・カー(64才、ローマ五輪から連続3回出場、東京五輪800m3位、ローマ五輪、4x400mリレー3位)

「ハーブとは近所同士で、ハーブの父親が教区の牧師だったので子供のころから知っていた。わたしが400、800mに興味を持ち出したのは、"Giants" (偉大な先人達)の影響に刺激されたから。同じころキース・ガ―トナー(短距離、ハードル、走り幅跳びで活躍。ローマ五輪でカーと一緒に4x400mリレー3位)らがいたね。わたしの素質をハーブが認め、アドヴァイス、励まされイリノイ大学の陸上奨学金獲得を推薦、ハーブと同じコーチで伸びてきました。ハーブはわたしの恩人です。最近のジャマイカには国際的な中距離選手が、ほとんどいないのは寂しい。最近の傾向としては、ほかにもやることがたくさんあるのだろうと思うが、最少の練習だけで才能に頼って走るのが多いですね。陸上競技の取り持つ縁で、あなたが日本人なら、東京五輪800,1500m2種目優勝したピーター・スネル(NZ)を知っていると思うが、かれとはあれ以来毎年クリスマスカードを交換している間です。ピーターは素晴らしい人、チャンピオン、ファイターです。2年前、かれに招待されてNZで再会しました。楽しかったね。だが、ニュ―ジランド中距離は、残念ながらあそこはラグビーが盛んだから、ピーターの後続が続かなかったね」

 (Photo.ジョージ・カーもスタジアムにやってきた)

女性短距離パイオニア的存在

ヴィルマ・B・チャールトン(58才、西インデイーズ大学、教育学部講師、64、68、72年五輪100m出場)

「ジャマイカは昔から男女差が比較的少ない国。義務教育制ではないが、教育は比較的盛んなために、学校スポーツが男女と共に発達しています。ですからジャマイカのスポーツ発展を支えるのは、中・高校の学校スポーツです。欧州スタイルのクラブ組織があるのは、クリケットかサッカーでしょうが、初期の陸上競技、要するに子供達に陸上競技に興味を持たすきっかけは学校のコーチに依存していますね。伝統校になると、中学生から全国にスカウトを送って、才能ある生徒獲得をするケースがあります。この伝統ある全国大会、地方の大小のレースがジャマイカ陸上競技界の根底をなしているのです。ジャマイカの陸上競技は、伝統的にアカデミックのスポーツですね。わたしの仕事は、将来、体育教師になる人達の講師をしています。この人達が、やがて全国に散って学校スポーツ、体育の指導に当たる分けです。わたしも高校の全国大会で才能を認められて、やがて五輪に出場することができました。でも、東京五輪が最高でした」

  短距離は基本練習に忠実でなければならない

ロナルド・クオーリー(51才、72年大会から連続5回五輪出場、"カーヴの魔術師"と呼ばれ、モントリオール五輪200m優勝。国内でマッケンレー、オッテイに並び尊敬されている。68年、17才のジャマイカ選手権兼トライアル200mで2位、88年、20年後、国内選手権兼ソウル五輪トライアル200mで2位。息の長い選手だった。)

―全国高校選手権大会の総ての大会100m記録を塗り替えた史上最高の天才スプリンターと呼ばれますね。

ドン―(はにかみながら)まあまあ強かった。始めは14才ごろまでサッカーに夢中だった。そのころサッカーから少しずつ、陸上に入っていった。スプリントは大好きだった。

―ジュニア世界選手権200m優勝者ボルトは、クオーリー二世になる可能性はありますか?

ドン―かれの年齢で自己記録が20秒56は世界最高でしょう。凄いポテンシャルはありますが、将来ウサイン・ボルトがどのように伸びるか誰も分らない。ボルトの才能は、間違いなく将来の期待を膨らませてくれます。わたしはかれの体つきから、聞くところによると、400mをあまり好きではないらしいが、やがて400mを走るほうが大成するように考えます。かれのコーチ、パブロ・マックニール(注:東京五輪100m準決勝)は、わたしの友人で非常に良いコーチです。かれの指導であせらないで練習を積めば、数年後より、4年後が楽しみな選手です。若くて20秒56の記録を出したのですから、これから今までのように記録が急激に伸びるものではない。すると、周囲の期待やら焦って潰れたり、環境によって自己管理が難しくなります。才能だけで大成はしません。ですから、メンタルのタフネスも成長して欲しいですね。

―最近、あなたが76年200mで優勝して以来、ジャマイカの男子選手の成績が思わしくありません。なぜですか?

ドン―今の若い選手に、デイスプリン、集中力、ヴィションが欠けています。ある程度の自己を犠牲にして、高いモチヴェーションを掲げてがんばる選手がいませんね。プロ化されて、国際競争がさらに激しくなった今、簡単に世界的な選手に成れる筈がないのに困ったものです。

(Photo.ロナルド・クオーリー)

―選手の素質は? ドン―ジャマイカに素質あるものが多いが、それだけでは大成しないでしょう。若者が興味を引くことが山ほどあり過ぎますね。伝統的にジャマイカ陸上選手は、田舎出身者が多いのです。国内の企業がスポンサーを拒否、高校、大学の奨学金制度がない国状です。また、ジャマイカは優れた設備がない。ジュニアレヴェルまでのコーチはたくさんいるが、シニアのコーチが非常に少ないのも欠点です。陸上競技に若い夢を賭けるようなことは非常に少なくなったのも事実です。

―あなたは5回連続五輪出場しました。現役を長く続けられた秘訣は?

ドン―走ることをエンジョイできたことです。素晴らしいコーチの元に、毎年シーズンを迎えるとき誰も同じように常に基本に忠実な、イロハの練習からスタートしています。なぜかと言うと、スプリントは総てが瞬間的なモーションのため、正しい基礎的な繰り返しが必要だからです。 

ジャマイカ短距離選手は世界の一流選手だが、勝てない。

バートランド・キャメロン(43才、ジャマイカ・スポーツ・インステイチュート、コーチ、400m最高記録44秒50、第1回世界選手権優勝。80、84年五輪400mで優勝確実されたが、荷度とも悲運な故障で決勝レースを棄権した)

「昔も今も、ジャマイカのナンバーワンスポーツはサッカーか陸上競技でしょう。わたしもサッカーが好きだったが、いつもベンチに座って試合を見なければならなかったので、個人競技を始めたのです。ジャマイカは、高校全国大会が非常に盛んで、中学生にスポーツ奨学金を出して才能ある選手を勧誘する。わたしの場合も同様で、スポーツ奨学金を得て高校に入学できたのです。しかし、それ以上に才能を伸ばそうとすると、どうしてもアメリカの大学に頼らなければならないのが現状です。ここでは個人スポーツにスポンサーがつかない。アリゾナ大学のスプリントコーチをしていたが、97年母親の死亡を契機に、今までの経験を生かしてジャマイカ陸上競技会の発展に尽くすために帰国したのです。 ジャマイカは人口の割に、世界のトップランクの選手が多く、選手寿命も長く、それなりの活躍をするがなかなか優勝できない。考え方が甘いし、シビアな競争がアメリカのようにない。例えば、男子ジュニア200m優勝したボルトなど、15才で20秒56の偉大な才能は疑いのないものです。しかし、かれの才能を生かすのも殺すのも、環境が非常に大切なことは言うまでもありません。かれの年代は非常に微妙な時、数年を予測することは難しい年頃です。厳しい練習を課せて、精神的に"陸上競技"に集中するような日常生活をするなら、とんでもないことでしょう。甘やかされジャマイカの小さな世界の中で、今最も大切なことは勉強です。その辺の兼ね合いが難しい。わたしの主な仕事は、国中の大小のレースに顔を出して才能発掘、選手と家族に理解を求め、最終的にはアメリカの高校、大学とコンタクトをして送ることです」

(Photo.左、カメロン、ジュニア世界選手権200m優勝者ボルト、右、ホアントレア)

オッテイの活躍が刺激的だった

グレース・ジャクソン(41才、ロス五輪から連続3回五輪出場、ソウル200m2位)

「われわれの世代は、マリン・オッテイの出現によって刺激され、ジャマイカの女性選手が国際舞台で活躍する直説の動機になったと言えるでしょう。ジュリエット・カスバート、わたしらがほぼ同期です。わたしは走り高跳びの選手としてアメリカのスポーツ奨学金を受けて大学に行ったのですが、途中でスプリントにコーチの薦めで転向。最初はきつかったのでいやでしたが、記録が伸びてくると走るのが楽しくなってきました。オッテイの活躍は、われわれジャマイカ女子スプリンターの牽引車、憧れ、刺激、自信、影響を与えました。彼女に"負けるものか!"と思ってがんばったものです。ジャマイカの良いところは、国が小さいので陸上界が家族のようなもの。精神、肉体の限界まで追い詰めての練習、激しい競争がありませんからね。少しのんびりしていますが、そんなところもジャマイカ的ですね」

(Photo.グレース・ジャクソン、ラジオ解説)

常に、先人の活躍と比較されて成長する

ジュリエット・カスバート(38才、モスクワ五輪から連続5回出場、最高記録100m10秒83,200m21秒75、バルセロナ五輪100,200mで共に2位)

「12才から陸上に興味を持ち出し、本格的に始めたのが全国大会で優勝してから。ジャマイカの短距離が強いのは、生まれてここで育つと男ならマッケンレー、カー、ウイント、ドン、女ならオッテイのような先駆者達に追いつけ追い越せ、いつかあのようになろうと夢と希望を追う宿命になっているのです。国内なら高校生、大学生まで、家族、友人達が才能ある選手を支えてくれるだろうが、大学を卒業して、陸上競技で日常生活を支えることはほとんど不可能です。アメリカの大学の奨学金に頼らなければならないのが現状ですが、これもジュニア世界選手権で活躍でもしない限り無理でしょう。ですから経済的な理由でスポーツを止める人が多いのです。最近、男子の活躍が少ないのも、少し強くなっても、先人の凄い業績と比較され、凄いプレッシャーになる、多少の成績を残してもなかなか世の中が認めてくれません(笑う)。最近ジャマイカの男子選手お活躍が低下しているのは、将来を考え陸上競技に専念するのを避けるからでしょう。」  

 (Photo.ジュリエット・カスバート、ラジオ解説屋として活躍)

ジャマイカはスプリンター「生産工場」だ!

ジミー・カーネギー(64才)ジャマイカの著名なスポーツジャーナリスト

「ジャマイカ短距離選手が世界のトップレヴェルに踊り出たのは、ジャマイカが大英帝国の植民地時代"West Indies"のころ。それまで無名なジャマイカが、突然、1948年ロンドン五輪でデビュー,男子100〜800mの種目に4人、アーサー・ウイント(外科医、ジャマイカ英国大使、1920年生まれ、故人)、ハーバート・マッケンレー(元協会会長、コーチ、80才)、レスリー・ライング(77才、プエルトリコ在、農業)、ジョージ・ローデン(80才、外科医、アメリカ在)らが、"ジャマイカ旋風"を巻き起こしたからです。続く、52年ヘルシンキ五輪でも健在の4人が、無敵と言われたアメリカ4x400mリレーに競り勝ち世界新記録で優勝した。このとき以上のチームは、現在でも超えることができない史上最強チームです。このときから、ジャマイカは五輪、世界選手権、パンナム、中央アメリカとカリビア大会で、多分、世界的な短距離選手をアメリカについで世界で最も多く生んでいる国でしょう。これを私はスプリンター"生産工場"と呼んでいます。(笑い)」 「ジャマイカが強くなった背景は、1910年から高校生の男子を対象にした"Chumps"と呼ばれ国内のいたるところで、現在はもちろん女子も参加、毎週のようにどこかで開催されています。この大会はジュニア世界選手権大会より観客の熱狂度は高く(笑う)家族、親戚、友人、コミュニテイ全体で応援にゆきます」

「他にもいろんな説がありますが、ジャマイカはスポーツが大好きな国民。ジャマイカの歴史は、植民地政策の奴隷から始まっています。国民95%の祖先はアフリカの"デイアスポラ"、砂糖キビ農園で働く労働のために西アフリカから"奴隷"として連行されてきました。17,18世紀、奴隷が農園から逃亡、山に逃げて生き残った者も多かったのですが、1838年奴隷廃止法が施行されました。ある人はジャマイカ強さの秘密を『アフリカ人のgeneticがそのままオリジナルに似た環境で生存、継承されジャマイカの環境で自然に鍛えられた』とも言います。地理的な環境、平坦は殆どなく山(最高峰は2256mのブルーマウンテピーク)、丘ばかりで起伏が激しい。子供のころから足が自然と鍛えられてきたのです。いずれにしてもいろんな要素が組み合わされてのことでしょうが、アフリカの部族、スペイン、イギリスなど、多種の混血などの利点もあるでしょうね」

(Photo.ジミ―、カーネギー、ジャーナリスト)

「しかし、あるエポックで天才的な選手が活躍することができても、後続が続かなければ伝統を築くことはできません。ジャマイカ選手が中央アメリカとカリビア大会でウイントが800mで優勝したのが1938年です。それまではジャマイカ選手が国際大会で活躍する力はありませんでした。ジャマイカ選手がロンドン五輪でウイント、マッケンリーが400mで1,2位、ウイントは800mで2位、4x400mリレーでも決勝に進出。小さなカリブ海の植民地の選手が、宗主国で世界の選手を相手に痛快な大活躍です。ジャマイカ国民が多いに溜飲を下げた強烈なインパクトを与えた劇的な瞬間だったのです。特に、マッケンレーは国際大会で大活躍、51年にアルゼンチンで開催されたパンナム大会で100,200,400mの3種目でいずれも3位。強豪のアメリカ選手と競り合っている。ヘルシンキ五輪は、ローデン、マッケンレーが400mで1,2位、マッケンリーは写真判定の結果100mでも2位。ウイントは激戦の末、前回に続きメル・ウイットフィールド(アメリカ)の後塵を浴びて2位。大会のハイライト4x400mリレーの第3走者。大きくリードするアメリカ選手を追い抜く、後世に語り継がれる超人的な走りで世界新記録を樹立して優勝した原動力になったんです」

「かれらの"偉大な4人"の金字塔は、ジャマイカの陸上競技"精神的な柱"を深く植え付けたのです。確実に後世に伝えられ、若い世代の永遠な精神的な支え、誇りと目標なのです。偉大さのプレッシャーに、時には後継者が育つことが難しいときもありますが、ジャマイカは短距離選手の人材にはこと欠きません。しかし、素材は豊富なのですが、素質を大きく伸ばすだけの環境が国内に存在しないのです。国内の施設は古くて十分ではない。スポンサーは望めない。経済的なバックアップなどは、アメリカのスポーツ奨学金に依存しなければなりません。また、選手生活を終えてもジャマイカでは、並の選手では教育がなくては生活ができないために海外移住者が多いのです。ウイント開業医をしていたが、晩年、英国のジャマイカ大使を引退後92年亡くなった。ローデンはカリフォルニアで開業医師だが、不動産業をしていた。ライングはプエルトリコで農場を経営。ハ−ブだけが、ジャマイカに残った。ある次期に生命会社に勤務、高校の体育の教師をしたこともありますが、半世紀、ジャマイカの陸上競技の発展に尽くした人です。ジャマイカではハーブは史上最高の選手と尊敬されています」

ジャマイカの先駆者達の残した、後世に及ぼした影響力が面白いように酷似している国がある。ひとつは、エチオピアが初五輪参加したローマ大会。無名なビキラ・アベベが、で元宗主国イタリアの首都ローマ古代アツピア街道を"裸足"走り抜けたシーンは衝撃的な象徴だった。アフリカで続々独立新興国誕生、アフリカの将来に希望を与えた"星"になった。続く、東京五輪でもアベベは健在、圧倒的な強さで連続優勝した。現エチオピア長距離王国の精神的な基礎を残した選手だった。

ケニヤは独立直後の64年東京五輪に初参加。警察官だったキプ・ケイノは、東京五輪でこそ目立った存在ではなかったが、68メキシコ、72年ミュンヘン大会1500,3000m障害で3個の金メダルを獲得。中距離、3000障害で、ケニヤで未だ破られることのない同国史上最強ランナーだ。アベバ、ケイノらの超人的な先人の活躍は、これらの国内で永遠に若い世代のアイドルとして存在、継承されて行くだろう。エチオピア、ケニヤの熾烈な隣国同士のライヴァル争いは、この二ヶ国の選手で世界の長距離記録を飛躍的に更新してきた。

 (Photo.ボルト、15歳と11ヶ月でジュニア世界選手権200mで優勝)

日本も歴史の過程が少し違うだろうが、金栗四郎らマラソン先駆者の残した業績から、伝統の恩恵を継承していると言えよう。

(Photo.トリダート、スプリンターの活躍は伝統的だ)

(↑講談社・陸上競技社・月刊陸上競技誌2002年10月号掲載)
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