ポーランド史上最強『黄金トリオ』
五輪競歩史上最強コジェニョフスキ、ハンマー投げ男女制覇ジョルコフスキ、スコリモフスカ
あるエポックに,ポーランドはとてつもない怪物、傑出した選手を生む国だ。東京五輪でポーランド史上最強女子
短距離選手シェビンスカがデビューした。あのダイナミックな走りは、観客に強烈な印象を残した。シェビンスカ は短距離選手としては生きの長い選手だった。五輪出場4回を数え,200、400、4x100mで優勝,200m2
位,100、200m3位の五輪史上稀有な名選手。男子では,ローマ,東京五輪2連勝した三段跳びのシュミット、モントリオール,モスクワ五輪で活躍した3000m障害のマリノウスキー、棒高跳びのスルサルスキ、コザキエウイッチェらの名前が挙げられる。だが,80年代の国内政治改革の激動期に、あらゆるスポーツ活動が一時沈滞した。
しかし、90年代に入って,ようやく新たな社会システムの中から再び活路を見出してきたしたたかさがある。
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シドニー五輪50km競歩スタート直後
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アトランタ五輪でコジョニョフスキが50km競歩で優勝。ポーランド陸上で16年ぶりの金メダルをもたらした。シドニー五輪は,ポーランド陸連史上最高の成果を上げた。ロベルト・コジェニョフスキは20kmで初優勝。その5日後,競歩五輪史上初の50kmでアトランタに続き2連勝,大会初の両種目優勝の快挙を遂げた。男子ハンマー投げは,シモン・ジョルコフスキは雨を味方につけ、五輪種目初の女子ハンマー投げは,弱冠18歳の怪物高校生カミラ・スコフモリスカがヴェテラン選手を押さえて堂々優勝した。
『黄金トリオ』は国内で果てしなく続けられる祝勝会を離れて、コジョニョフスキはフランス,ハンマ ー投げコンビはポルトガルで新世紀初年シーズンに向けてトレーニングを開始した。
歴史的快挙を成し遂げた競歩の王者
自らを信じることが成功への道、ロベルト・コジョニョフスキ
「スタジアムに入る最後の500mは少し登り坂。五輪1年前コース下見をしたとき,ここではどんなことがあっ ても絶対に注意しなければならない地点だと肝に銘じた。ぼくはバルセロナ五輪50kmで2着で入っていながら失格になった経験がある。最後の3から5kmでスピードを上げるのはそんなにリスクはないが,レース終盤になって
スピードを上げるのは最大のリスクを伴う。審判は最後の400mで警告なしで失格することが出きるからだ。それでも嫌な予感が頭をかすめた。セグラは素晴らしい選手であることに疑いの余地はないが,ラコローニヤで開催されたレースで、ぼくはセグラに猛烈なスピードで追い抜かれた。かれはレース終盤にイチかパチかのリスクを負った動きをする。これが成功している。シドニーが始めてではない。ぼくが言いたいのは,レースによって審判の判定基準が違ってくる。完璧なコンタクトが行なわれていなくとも,そのままなにごともなく勝ってしまうようなケ
ースがたびたび起こった事実があるからです。シドニーでも全く同じようなケースだった。セグラはそれを狙ったのではないだろうか?残り1kmでセグラは3位。すでにかれは2枚のレッドカード(最後の20分間で3回の警告を受
けた。3回目の警告はスタジアムに入る前だった)を受けながら,あのトンネルでぼくを追い抜いた。ぼくはレース 中自分のテクニックに集中しているので,セグラが3回の警告を受けていたことは知らなかった。ぼくはクリーン
だった。ホワイトカード2回、レッドカードは無かった。当然,かれを追える力もあったが,追い抜かれながら,2 位になっても良いと自分に言い聞かせながら追うリスクを避けて自重したんです。なんらかのリスクを負う動きをしなければ,あんなスピードが出るはずがない。大きな不始末を犯したのは,審判がセグラをゴール前に競技を止
めなかったことから起きた混乱。あの時ぼくがかれの後を追えば,ぼくがかれを挑発したことになる。失格にもなる可能性も充分あった。セグラは大きなミスを犯した。レース後に聞いたことだが,3位になったアンドレイエフ
も、2回の警告を受けたため、セグラの後を追うことはしなかったと告白している。結局、かれは3位。ぼくはゴ ール直後,驚いたことに,ポーランドは早朝の6:30にもかかわらず首相から電話があった。祝福され,帰国後の祝勝レセプションの招待を受けた。セグラはレース後も潔白を装い,我々が表彰式の時間を待っている間も,奇跡でも起きるのを期待してあの場所を動かなかった。」
フランス北部で冬季練習
今にも雨が降りそうな低く垂れ込んだ灰色の空。かつて紡績の街として栄えたフランス最北の町トルコワングは、 ベルギーとの国境上にある。ポーランド人のコジェニョフスキがフランスで合宿するのも奇妙に思うだろうが,実
はポーランドとフランスは意外に歴史的に関係が深い。ポーランドからナポレオン時代に炭坑夫,農夫がフランスに移住したためにポーランド系フランス人は数百万人と言われる。ロベルト・コジェニョフスキ(32歳,クラカオ在)は、92年ある切っ掛けでパリにあるクラブ,ラシン・ド・クルブ・ド・フランスと2年間契約。その後,トルコワング陸上クラブに94年から在籍,現在も継続している。朝練習を,妹シヴィア(21歳),個人的に雇っているフィジオのレシェックを伴って,車で7km先のベルギー国境を越えたエスコー川に沿った田舎道を行なった。前日の激しい練習からリカヴァリーが目的の12kmを終えた。クラブが借りてくれるアパートに戻り,ストレッチング。しばらくすると、ロベルトが手馴れた包丁さばきで昼食の支度に取りかかった。
五輪史上初の50km競歩連続優勝した 瞬間のロベルト・コジェニョフスキ
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「セビリアの失敗が,シドニー五輪で人より勝つことへの執着心が強かった。もちろん,ぼくのシドニー五輪最大
の目標は,五輪史上初の50km連勝だった。五輪に向けての準備,合宿,調整はほぼ完璧だった。20kmの平均 的なスピードも今までにない絶好調だった。10kmの自己記録を練習中に5回に渡って破ってきたので,両種目に自信があった。
ぼくの体質は天候にほとんど左右されない。バルセロナ,アトランタ,アテネ,セヴィリアでも,暑さの影響はなかったね。調整がしっかりできていれば問題はない。自分のテクニックを信じて集中力失わないことが大切だ。セヴィリアでは,審判に合わせた歩きをしたことが大失敗だった。ぼくは暑さを考慮して,ユニフォームは短く切っ
て腹部を露出,キャップを斜めに被ったハチャメチャなスタイルだった。競歩と『見てくれ』となんの 関係があるかと思うだろうが,実際、審判に選手が素人臭い印象を与えるのは良くはない。審判が警告を出しやすいようだね。スタジアムの外に出てから最初のラップ。集団の中で,いったいどうして判断できたのだろうか?突然,マレーシアの審判から警告を受けた。ショックで集中力を乱された。レースの早い段階での警告は,選手の信じるテクニックを崩すインパクトが強い。自分のテクニックに不安を持てばレースにならない。国際レース経験の豊富な選手が,競歩があまり発達していない国の審判からレースを壊されてしまう皮肉なケースだ。伝統ある国の国際経験豊かな審判,バランスある配慮が必要だろう。審判を政治的,地理的な配慮から選択されるべきではない。判定は非情なもの。だが,非情な裁断は総ての選手の問題でもある。最近の大きなレースに好調程度では勝てない。完璧な調整が要求されるからだ。セヴィリアのレースを後ほどヴィデオで見たが,ぼくのテクニックにミスはなかった。 |
シドニー五輪20kmレース後,次のレースまで5日間リカヴァー基間があった。フィジオ,医者,コーチらのアド
ヴァイスに従って,心身共にレフレッシュするために選手村を5日間離れ、ブルーマウンテンで合宿した。 50kmレースは,20kmより自信がある得意な種目。アクセレーション,ムーヴメント,流れるような効率良いリズム感は,最後まで変わらなかった。1km4分30秒から一挙にスピードアップ4分で走れる柔軟性を持てたし,平均4分11秒のスピードをキープできた。15km地点から終始トップに立ち,疲労もなく負ける気がしなか
った。最終的に両種目で勝ったのだが,ゼッケン番号2711を受け取った時,なにか運命のようなものを感じた。 シドニー五輪は第27回目の大会。『ダブルワン』の意味するのは、20,50km両種目で優勝を暗示していたのだ」
雄弁なウオーカー
ロベルトはポーランドの国民的な英雄。取材慣れ,フランスに住んでいるいることもあろうがとにかく雄弁だ。母国語,ロシア,フランス,英語を流暢に話す8歳の一人娘アンジェリカの父親。取材中,娘が電話でペットの亀が死んだと連絡してきた。ポーランド旧首都のクラカオ市で、奥さんが10人を雇うスポーツ2店を経営、レースマネ
ージャーも努める。ロベルトはクラブとの契約上フランスに年間3ヶ月滞在,自炊の合宿生活をする。ここはフランス,ベルギーとも同じ言語,文化圏のため、国境意識はなく牧歌的な村。買い物,ガソリンはベルギーの方が少し安いそうだ。その日の練習プログラムによってコース選択が違う。コースがフランスからベルギーの2ヶ国を通
過する。パリのクラブに在籍していた当時は,交通量が多くて練習コースに限界があったが、ここではのどかな田 園風景の平坦な田舎道。コース設定ヴァリエーションが可能。コース沿道の村の人達は、コース上で練習するロベ
ルトを温かく応援してくれるという。
91年東京でチャンスを掴む
「そもそも競歩を始めだしたのは,1984年16歳になる少し前だった。14歳から始めた大好きな柔道の警察官の先生が、突然解雇された。しかたなく次の先生がくるまでの間,陸上競技を始めたのがそのままになってしまっ
た。当時の陸上コーチが、『お前はスピード,ジャンプ力はないが、耐久,持久力が抜群にある』と 言って競歩を薦めた。1500m,クロスカンレースにも良く出場したことがある。最初のジュニア競歩レースで
は,人から借りた少し大きめのシューズで参加。一周以上遅れて最後だった。負けず嫌いのぼくは猛練習で,次の年は優勝。レースに勝ってくると競技が面白くなる。85年,全国からセレクトされた少年スポーツ身体能力テストを、ポーランド国立スポーツセンターで3日間受けた。ポーランドでは,伝統的に徹底したエリート教育システムをする。そのテストに合格した。
カトヴィッチェ大学に入学。専攻は体育学。お蔭で体育教師,陸上競技コーチの資格を収得した。ここでいろんなスポーツを試みた。自分の身体を知ることに役立っている。水泳,体操,ハンド,バスケットボールなど,ぼくは
器用でないから最初の2年間はきつかった。しかし、競歩に重要なリラックスゼーション,ボデイコーデイネ―シ ョン,エンヂュランス,無駄のないあらゆる動きを習得することができた。だが、ポーランド社会が大きな変動期
だった。89から92年は,我々はスポーツどころではなく,不安定な政治状況下に置かれ世の中は絶望的な不安 に落ち込んでいた。スポーツ援助金は財政危機でゼロに等しかった。それでも、ぼくはやっと東京で開催された91年世界選手権に選ばれた。そうそう、日本では楽しい思い出がある。われわれは時差調整合宿を長野市で行なっ
た。ある日われわれの練習を終えるのを待っていたように,コース沿いのお百姓さんが新鮮なトマトをたくさん差し入れしてくれた。嬉しかったね。あのトマトは美味しかった!ぼくには始めての世界的な大会だった。ぼくはイマムラ(今村文雄、7位)を最後まで捕まえることができなく、結果的に途中棄権。ぼくがここまでこれたのも、
いろんな人に助けられて来た。当時のポーランドの国内状況が最悪の状態。当然,スポーツに打ちこめる状態も望 めなかった。それが東京で逢ったフランス人との出会いから,フランスのクラブと92年1月から2年間契約が成立したため練習に専念できてきた。この恩恵は大きかった。ひとつは,最低限の経済的なバックアップ。次に,フ
ランスで冬季練習ができること。ポーランドの冬季は,路面の積雪,氷結でロード練習は3ヶ月以上ほとんど不可能です。一般のポーランド選手よりは30%以上の練習メリットがある。競歩のコンセプトはポーランのシステム
が優れているが,フランスでは全国どこに行っても優れたスポーツ設備が完備されている。ぼくはポーランド人だが,フランスに負うところが多い。フランスは第二の故郷です」
五輪後の多忙な日々
昼食後,ロベルト,シヴィアはシエスタをたっぷり90分取った。そして、起きてきたロベルトがコーヒーを入れ,かれのメインスポンサー、ビスケット会社のビスケット缶を開封した。その日の午後は多忙だった。4時30
分からトラック周辺でリカバー10kmをこなす。6時30分,ロベルト所属クラブ主宰の国際クロカンのレセプシ ョンにゲストと出席。東京五輪3000障害優勝者ガストン・ローラン(ベルギー)、欧州5000,1万m記録保
持者モロッコ生まれ,現ベルギー国籍のモハメッド・ムーリッツらと会談。8時30分からサウナ,マッサージを受ける。
「シドニーから帰国してから,1月初めにフランスにくるまで3ヶ月間1日の休みもなく歓迎パーテイーに出席。 上はポーランド首相歓迎パーテイーから、際限なく国中から招待が舞い込んできた。身体がいくつあっても足りな
い。フランスに来てからやっと少しは落ちつき、真剣に練習に集中できるようになった。今年1年間,心身のリフ レッシュが最も重要なこと。五輪の成功,競歩で金儲けができるとは思えないが、金のためにレースに出場、心身
をすり減らすことは危険だ。五輪後遺症をどのようにして解消するか、五輪準備以上に重要なことと思っている。 今年は、強いて言うなら世界選手権だけをターゲットに留めておきたい。ポーランドでは,ぼくの名声を政治に利
用しようと,総ての政党から政界入りを薦められた。多分,ぼくが立候補すれば選挙に確実に当選すると思うが, そんなばかげたことはできない。ぼくはスポーツマンであっても,政治家にはなり得ないからだ。ひとつ確かなことは,政治より競歩が好きなこと。モチヴェーションの低下,故障でもなければアテネに向かって競技生活を続けて行くだろうね。
(ロベルトのHPアドレスは,http://www.Korzeniowski.pl ポーランド,ロシア,フランス,英語のいずれかを使用すること)
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