室伏弘治の2002年GPの戦い

アドリアン・アンヌシュ(ハンガリー)が、6回投擲を終えて80.03mでリードしていた。最後の投擲者の室伏は、サークルに入るとおもむろに「形」を作りモーションに入る。一回転ごとに高速に加速されるターン。遠心力が極限に緊張された瞬間、鉄の球は"パッ"とカタパルトから飛び出すように放物線を描いて飛んだ。落下地点は80mラインを大きく越したのだろう。「ワーッ!」とひときわ高い歓声がスタンドから上がった。 室伏はサークルを出ながら「どうだい!」とばかりに同僚に大きく両手を開いた。確かな感触を得たのだろう、競技中ニコリともしない男が笑顔でケージから出ながら掲示板で81.14m優勝を確認「やったぜ!」と右手を上げて飛び上がった。次々に同僚が駆けより、大男同士が抱き合い優勝を祝福する。GPファイナル戦で種目別優勝した日本人初の歴史的快挙だ。

今季最大の目標はGPファイナル優勝

「ゴールデンリーグ」(GL)と呼ばれる7大会がある。(来年は6大会に縮小)伝統ある欧州各地で開催される大会である。これに出場できる日本選手は数少ない。今年は室伏、福士、朝原、為末らぐらいしか出場できなかった。さらにその下のランクに、グランプリ(GPT、U)と呼ばれランク付けされる大会が世界中にある。ちなみに横浜の"スーパー陸上"はGPUであるからCクラスと言えよう。このGLに出場できる資格ある選手は、マネージャーの力も多少影響するが、世界ランキングがコンスタントに10位ぐらいをキープしていなければまずお呼びが掛からない。過去にこのGL,GPで活躍した日本選手は、瀬古、中山、溝口、真木、福士らを目撃している。日本のマラソン選手が夏のスピード練習一環のために、あわよくば外国選手に引っ張られて自己記録を伸ばす為に欧州遠征をする。これは現在でも状況は大して変わらない。最近の世界の長距離に進歩では、日本選手に出場の機会は少ない。それに変わって女子の可能性が高くなった。日本選手が主催者から実力を評価されて旅費、滞在費、出場料金の提供を受けて招待されたのは、多分、溝口、室伏の二人ぐらいのものだろうか。そして、溝口の槍投げは、かれのライヴァルの誰よりもスピーデイーで美しかった。日本人が本格的にGP転戦して活躍できたのは、89年溝口が槍投げで種目別2位の快挙を達成した。余談だが、この話しは一昔前の話ですでに時効になっていると思うので書こう。溝口は89年サンホセで87.60mを記録した実績から、欧州陸上シーズン開幕と同時に欧州遠征に腕試しにやってきた。しかし、聞くところに寄ると、日本陸連は大会主催者に「旅費、滞在費、出場料金は一切要りませんから、溝口の出場許可して下さい」と、方々に連絡したらしい。プロ化の初期のころだが、それにしても理解に苦しむ卑屈なデイ−ルだった。 前置きが長くなったが、最近のGL,GPなどは本格的なプロ選手の生活を賭けての熾烈な戦いだ。そのGPは日本では到底まだ市民権を得ていない。室伏は「まあ、どうでしょうかね。人によってはGPがなんであるかピーンとこないかもしれませんね。帰国すると皆さん大変に喜んでくださったが、多くの人にはGPがどう言うものであるか多少の説明が必要です」と苦笑する。 今年は大きな選手権大会がない。そのため、室伏は今年の目標をGP転戦、GPファイナル優勝に掲げた。それを室伏はこう説明する。「欧州遠征の最大の目標は、GPを転戦してGPファイナル出場できるポイントを稼ぎ、ファイナルで優勝することです。選手権大会は、短期間で争うのですが、GPと言うのは本当に限られたトップクラスの選手しか出場できません。ハンマー投げの世界トップクラスの選手はそんなに多くありませんが、試合数が少ないのでケッコー選手が集まるんです。ですから、そう言う意味でも手抜きをするつもりはないですが、張りつめた感じですね。高いレヴェルの競技に自分を置いて、どれだけコンスタントな記録を出せるか非常によい経験になると思います。技術的な問題よりも、ちょっとしたて気持ちの持ち方、変化で記録に影響しますから、異質な環境に身を置いていろんな生活体験が必要なのです。いろんな国を廻ることで競技だけではない生活、町の風景、文化、旅行、ホテル、食事などを見たり聞いたりすることによってプラスアルファがつける必要性がありますね」

7月12日、室伏は日本選手権で優勝した1カ月後、今季最初のローマGLに出場した。長い取材経験で投擲選手は、意外に、中にはあの大男達が外見に似合わず、非常に繊細でマクロの世界で勝負しているのが理解できる。大男も人の子、プレッシャーで極度の緊張、ビビルことも珍しくはない。3年前のビースレットGLの男子砲丸投げで、ハンター(元マリオン・ジョンーズの夫)に接近しすぎて「カメラをぶち壊すぞ!」と怒鳴られたことがある。かれの気に触ったのだろう。あの時は怖かったが、数日後のDNガランのパーテイでハンターを捕まえて謝ったら、打って変わって愛想が良かった。溝口と室伏に非常に類似した共通点を発見した。それはエドモントン世界選手権大会で、筆者はフィールド内でハンマー投げ決勝を撮影した。もちろん、お目当ては室伏の一挙一動の撮影だが、室伏には全身に"眼"があるかのように、動物的な感覚で20m以内に近づくものをたちまちに感知。眼を細めて鋭い視線を飛ばしてくる。かれの「眼」は無言で接近を許さない。撮影されることで集中力が散漫になるのか、撮らせたくないのか、いずれにしても撮影されることを拒否する。そんな点は驚くほど溝口によく似ている。かれも近くで写真を撮られるのを極端に嫌ってそっぽを向いた。気難しく、突っ張っていた溝口は、人に間違った印象を与える損な性格だが、そのうち言葉を交わすようになって槍投げに凄い情熱をかけている姿が見えてきた。室伏と溝口、日本陸上史上最高の投擲選手に、ひたむきに写真を拒否する姿がオーバラップしたのに興味がある。そんな状況になれば無理して撮影する必要はない。そこでしつこく食い下がるより、久しぶりに会ったシモン・ジオルコフスキとこんなバカ話を始めた。 「元気?」「この通り元気いっぱい。身体はノー・プロブレム!プロブレムだね、やる気が全く起きなく記録が出ないことさ!ガッハッハ!!コージとの対決ですっかりエネルギーを消耗してしまったのさ」

室伏は1投目に79.90mを記録、コンスタントに79m台を飛ばしたが、その後、期待はずれで記録は伸びずに6位。アスタブコビッチが80.79mで優勝した。わずか1m以内に6人がひしめき合う激戦だった。試合後、室伏は待ち構えていた記者の前にきて、大きなバックを肩から降ろしながら開口一番、筆者に向かって「(ぼくの顔を覗き込むようにして)あなたじゃあないんですが、ヘンゲロにも来ていた日本人のカメラマンがぼくの回りをうろちょろしてすっかり気が散りましたよ。(カメラを構えるジェスチャ―で)走りまわってこうですからね〜」と、不本意な結果に苛立ちを隠さず、不満をぶちまけてきた。カメラマンに集中力を乱されたので記録は伸びなかったと言わんばかりだった。 室伏は「勝つチャンスはあったんですが、うまくゆかなかったんですね。技術的な問題も少しあったが、練習でできても試合にできなければ意味がないですから、そんなことを繰り返しテストしています。このレヴェルになると、技術よりちょっとした気持ちの持ち方で大きく違ってきます。逃げるわけではありませんが、ある部分"運"が存在、左右すると考える場合もあるんじゃあないですか。運命論で勝敗、記録をエクスキューズするのではありませんが、そのように思いたくなるような、数センチの間に何人も割り込んでくる勝負の厳しさがありますね」という。鋼鉄のように鍛えられた大男たちが、あの重たい鉄球を80m以上のかなたに飛ばす技術はもちろんのことだが、マクロの世界にまで及ぶ繊細な変化が勝負を分けるのだという。"ちょとしたこと・・・・"が、落下地点までくる鉄の球がわずか数センチのずれが生じてくるのだ。

9月14日、パリのGPファイナル戦は、室伏対ハンガリーの"ハンマー3人衆"ゲチェック、キシュ、アンヌシュの対決だった。 室伏は「そうですね〜。ハンガリーの選手がなぜ強いか知りませんが、伝統的に槍投げ、円盤投げなど、なんでも投擲は強いですね。ロンドン五輪優勝したネメス、メキシコ五輪で優勝したジボツキ−なんかいますし、伝統の力でしょうかね。ゲチェックらは地元では有名人。試合の前後に新聞TVの報道に大きく取り扱われて、常に、かれらはプレッシャーを感じてやっているんですが、自分のペースをしっかり守りながら生活、練習、試合して行くのが非常にうまいですね。シモンなんか今年は成績が良くないから新聞にも叩かれています。大変な思いをしているようですが、あんまり焦っているようにも見えないんですよね。そして、かれらの強いところはなにをしなければならないのかを良く知っていて、先を読む洞察力があるんです。その程度のハプニングでは動じないんです。多分、いろんなことを想定しているようで・・・・。GPに出場してくる常連の競争相手ですが、ぼくが世界選手権で2位になってから、人の評価をあまり気にしないタイプですからその点が良くわかりませんが、まあ、この世界も勝って、記録を出してなんぼの世界ですから、最近は少しばかりはぼくの実力、実績を認めてくれているかもしれません。しかし、いざ試合になると状況が急転します。かれらも優勝を狙ってきているのがビンビン感じるんです。勝負に温情はありません。」

室伏は長いこと、手摺から身を乗り出してサインをせがむ子供達に応えてからミックスゾーンにきた。ローマGPとは逆に先手を打って「今日の試合は、カメラマンに惑わされることもなく落ち着き自信あるように見受けられたが・・・?」と、切り出した。一瞬、室伏は身体を後ろに引いて「エーッ!」と笑いながら反応した。「優勝おめでとう!」「ありがとうございます。本当に勝って良かったですよ!」さも今季最大の目的を果たしてほっとした表情だった。最後の1投で逆転優勝して精神的なゆとりを持てたのだろう。声にも表情にも緩んでいた。いままでのように面と向かって話しても、目を避けるようなことはしない。 「風邪気味で少し熱もあったんですが、これに勝つことが今季最大の目標でしたから是非勝ちたかった。勝つチャンスはあるとは思っていたんですが、79m台をコンスタントに投げていたので、スリップ気味のサークルに慣れればなんとかなるんじゃあないかと思っていました。(ナーヴァスに毎回丁重にサークル内を拭いていたのを聞かれて)選手の手につける滑り止めの粉がサークル内に落ちて滑るんですよ。それを拭取らないと滑るんです。最後の投擲は、回転で足がしっかりグリップできたし、投げた感触も良かったですね。本当に勝ってよかったですよ!!」と手放しで喜ぶ。1投100万円、6回投げたので合計約600万円の賞金を獲得した。プロ化宣言したが、室伏は「毎年大きな大会があるのですが、日本は賞金だけではとても食べていけないですね。国によっては凄い大金になるようですが、ほかの国では少しの小遣い程度にしかならないですよね。」

その夜、39度の高熱にもかかわらず、16日に開催される横浜GP出場のため帰国。15日帰国、その夕刻39度に発熱。その翌日も37度の熱があったが高校1年生のときから知っていて、なんどか一緒に合宿したこともあるゲチェックの引退試合ということで強行出場。75・24mを投げて、3投目以降を棄権した。マドリッドで開催されるワールドカップ(22日)に向けて自重した。実業団(29日)、アジア大会が控えているハードスケジュールだ。

ワールドカップは4年に1回開催される。前回南アの首都ヨハネスブルクだった。あの時も小雨が降り肌寒かった。今回はスペインの首都マドリッドで9月22,23日に開催された。観客も少なく、1週間前のGPファイナルよりさらになにかピリッとしない雰囲気。初日の男子ハンマー投げが終了して、それまでの青空に真っ黒な雲から大粒の雹が音を立てて落下。豪雨も叩くように振り出したため、全ての競技は1時間以上中断。散々なスタートだ。ワールドカップ、要するにグローバルな地域対抗戦と呼べる形式で、USA,アジア、開催、オセアニア、アメリカ(中央、南、カリビアを含む)、アフリカ、英国、欧州、ドイツの9チームで争われる。 一般にどの種目もテンションが緩い大会だが、ここでも今季何度目になろうかハンマーは室伏−アンヌシュの対決だった。初日最初の決勝、4回の試技で勝敗を決める。 「せっかくアジア代表に専攻されたのだし、出発する日になって少しは熱が下がったので、これなら大丈夫だろうと思っていましたから・・・。楽観的な気持ちできたんです。」室伏は大会1日前にはアジア選手代表として、各チームの代表と記者会見に出席した。 ピリピリするような緊張感ない。アンヌシュが2回目80.93mを投げて優勝。前回の雪辱を果たして3万ドルを獲得した。室伏はここでも最後の投擲で80.08mを投げて2位だった。次の日、中国円盤投げ選手の変わりに大会2日目の円盤投げに出場。笑いながら「円盤なんて学生以来触ったこともないですよ。下手なので円盤でも槍投げでもなんでも良かったんです。練習やらなけりゃ後飛びませんよ。40mも飛ばないでしょう(笑い)下手ですから撮らないで下さい」 室伏の記録は41.93mだった。

室伏弘治の競技は、全て一様な「形」「儀式」をきっちりしないと「動き」を開始しない。およそどの種目のアスリートでも、さまざまなポーズを繰り返し、確かなイメージを肉体に伝達、集中力を高めるのだ。しかし、ハンマー投げの選手の中でも室伏のスタイルはちょっと特異だろう。最初、ケージに入る直前、ハンマーに「入魂セレモニー」を始める。開脚して前屈みになって、右手から鉄球に手を伸ばし、身体にリズムをつけて網を引くように「鉄球」を自分の身体に引きつける、身体の中に引き込むような動作を繰り返す。あたかも"生"を与える如く鉄球に無言で語り掛け、優しく撫でるような抱擁をしながら、自分の身体の一部に取り込むのだろう。そうすることによって、1mmでも「遠くに飛べ!」の願いを込めるのだろう。 「まあ、大雑把に言えばそんなことも含まれているのかもしれません。(笑う)ハンマーが身体の一部になってゆくのは、あそこから始まるのは、簡単にいえばそうかもしれませんね。ハンマー投げという競技は自分の動きと反対のことをしますね。反動をいかに利用して遠くに投げる競技です。回るからと言って全くの円運動ではありません。同調とは違うんですが、ある部分では身体の一部にはなっているでしょう。練習で何本も何本も投げて行くうちに、ふっとしたきっかけであのようなことを始めるようになったんです。別に深い意味があるわけじゃあありません。紐の結び方一つにしても、ちょっとしたことが投げに影響しますから、ああすることもなんらかの関係がないことはないです。どうやって精神統一できてイイ投げができるかポイントです。たとえば、シモンが今年精彩がないのは、五輪、世界選手権優勝など、頂点に上り詰めた人の達成感からくる虚無でしょうか。長い練習を消化して、ある試合の結果如何によっては、その人人生すべてを賭けるような厳しい状況、精神、肉体的なエネルギーの消耗は凄いものだと思いますね。そんなの良く理解できます。今季は自分もそんな気持ちが多少出ますね。しかし、そうはいってもトレーニングは続けないと次の試合が良くないでしょう。そんな簡単に半端な態度で世界のトップのポジションをキープして行くことはできません」 それが終わると真っ直ぐケージに向かい、サークルに入る。ここでモーション(回転)開始前に3通り「形」のひとつを決める。そのときでハンマーを持つ片手が違うと、投げる方向に身体が開くのが違う。時には両手でハンマーを吊るようにする。歌舞伎役者並みの「型」をきっちりと決めて"キリッ"と投げる方向を凝視する。 「あれはそのときに感じによって、入りやすい方向が左右違うんです。前回が成功、失敗によって身体の位置を変えるのではありません。どちらかの手に持つかは、その時のフィーリングを大切にします。外からは些細なくだらないことに見えるかもしれませんが、運も含めて全てのことが記録に繋がります。しかし、同じレベルでどのように戦うことを考えるより、自分の実力をもっと高いところに上げる努力をすることでしょうね。1m弱の間に6選手がひしめき合うところで勝負しなくとも、それより一段ランクを上げれば勝負はつくわけですから・・・・。1本抜け出るようにならないとだめと考えています。常に、実力をどうしてつけるか!練習、試合経験の細かな分析を重ねながら、現在と同格の人より上に行く意識を持ってやっています。それしかないですね。」

GPファイナルで、知人のAPカメラマンから「コージは誰か?」聞いてきたので教えると「ヘーッ!?あれ日本人?」って返ってきた。ハンマー投げの「鉄人」と呼ばれた父親とルーマニア人槍投げ選手の母親の息子。月並みの言葉だが日本人離れした体躯に、父親からの英才教育を受け継いできた男だ。記録への可能性を聞いてみた。 「(85mぐらいは?の質問に)どうでしょうか?そんなに簡単ではないでしょうが、なんとも言えませんね。いろんな条件、身体の調子、精神的にも全てが上手く噛合わなければ無理でしょう」ついでに世界記録の可能性を聞いてみた。「スデックの世界記録(86.74m)は、ちょっとねー。あれはとてつもない記録ですよ。ひとつ抜きんでている凄い記録、大変なものです。でも、誰かが破らなければしょうがないでしょうね」と、他人のような返事が返ってきた。 鉄球へ「入魂」セレモニー、静の「形」から始まる回転へのモーションは、面白いことに剣道、弓道、空手などに見られる静止の「型」、多くの伝統的ある古典的な日本文化に類似点を見るのは著者だけであろうか。例えそれがハンマーであっても・・・・。

 

 

2002.10.4.return to home 】【 return to index 】【 return to athletics-index