小さな「巨人」、ガブリエラ・サボー、目標は13分台!
不思議なことに、ルーマニア陸上競技界は女性パワーで持つ。五輪成績は、圧倒的に女性上位の国。男は頭が上がらない。男子は、辛うじて銅メダル1個獲得したのに過ぎないが、女子選手は10個の金メダルを始め、銀12個、銅8個の実績がある。中でも、ルーマニア史上最強選手、ローマ、東京五輪女子走り高跳び2連勝したヨランダ・バラシュ(現ルーマニア陸連会長)の存在は大きい。彼女の功績が、輝かしいルーマニア女子陸上競技の基盤を敷設したとも言える。ルーマニアはヴァルカン諸国に属し、スラブの影響が強いがラテン系の国民。ちなみに、ルーマニアは「ローマ人の住む地」という意味らしい。
89年、チャウシェスク独裁政権が崩壊、革命が大成功した。激変した国情ながらも、バラシュが陸連会長に納まり、伝統の女子陸上競技は継続されてきた。ガブリエラ・サボー(26才、01年 ブカレスト大学体育課陸上競技専攻卒、教師資格を持つ)は、バラシュ会長のバックアップによって育ってきた現役ルーマニアのスパースターだ。今季、最大の目標は欧州選手権で初の5000m優勝、5000mの世界記録更新すると公言する。3ヶ月前に完成したブカレストの豪邸を訪ねた。
早熟な天才少女ランナー
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ガブリエラ・サボーの怪童振りを紹介しよう。
ガブリエラ自身は「私は学校の体育時間で走るとき、男子を含めて負けることがなかった。13才の時、体躯の先生からクロスカントリーレースが町(ルーマニアの首都、ブカレストから北へ600kmのビストリタ。トランシルヴァニア地方にあるハンガリー系の人口5万人の土地。ここではドイツ、ハンガリー語を話す人が多い)で行われるから出場してみないかと誘われました。クロスカントリーがどんなものかも知らないで、面白そうだから出場してみたんです。そしたら、簡単に優勝しました。両親が学校の成績に影響なければという条件で、町の陸上クラブC.S.S-ビストリタに入会しました。91年(15才)テサロニキの欧州ジュニア選手権大会3000m、9分19秒28で優勝。ソウルで開催された92年ジュニア世界選手権大会3000mで張林麗に続いて2位。この結果、16才でナショナルチームに選考されました。93年、ジュニア欧州選手権3000mで優勝。94年(18才)、ジュニア世界選手権3000m8分47秒40で優勝。欧州選手権でオサリバンと激しく争ったが惜しくも2位でした。その秋に名門“ラピッド・ブカレスト(鉄道公社のクラブ)に勧誘されて首都に移住。95年室内世界選手権3000mを8分54秒50、史上最年少で優勝しました」と言うように、あれよあれよと世界のトップランナーに成長してきて今日に至る。 |
99年10月2日、ガブリエラと結婚したコーチのゾルト・ジュンジュシー(36才、元110mh選手13秒50の記録保持者)は「ガビーを最初に見たレースは、彼女が始めて出場したクロカンレースだった。当時、私はC.S.S―ビストリタのコーチ。あの地方の子供達、選手を熟知していたと自負していたが、無名の小さなブロンドの女の子が2位を200m以上も引き離して勝った。同僚に“あの子は誰だ?”と聞いても誰も知る者はいなかった。それから彼女の両親を口説いて、私のクラブで“陸上競技”をしないかと勧誘したんです。ガビーは13才でしたから、一定の種目に限定しないでなんでもやってみようと仕掛けました。そうしないと、単純な陸上競技は“飽き”がくることと”燃え尽き現象“で興味を失います。ガビーは天性の中長距離ランナータイプですが、強くなるための厳しい練習に耐える強靭の精神力が最大の武器でしょう。昨季も室内3000mの世界新記録を樹立、1500m世界選手権で優勝しても満足していません。負けず嫌いの性格ですから、コーチするのは大変なことです。ルーマニアは伝統的に中長距離に世界的な選手を輩出していますが、ガビーが16才でナショナルチームに抜擢されたのは特例です。私が指導し始めて最初にしたことは、若い時に鍛えなければならないスピ―ド練習です。13から17才ぐらいまでに重点的に30〜80mのダッシュを週に3,4回取り入れたことです。そのお陰で14才で走り幅跳で5.01m、60mで8.01秒、60hで10.00の記録を出しています」と、ザボーの驚異的なラストスパートの秘訣を語
る。
ルーマニア陸上史上最大の功労者ヨランダ・バラッシュは、革命後、周囲の強い要望でブカレスト大学講師を止めて陸連会長に就任した。ルーマニアは大戦前に、欧州でも繁栄、栄華を極めた国だった。その面影が市の北に並ぶ豪邸に見える。その一角に新築された陸連事務所ある。“ヨランダ・バラシュ”と名づけられた陸上競技場、数面のテニスコート、3面のラグビーグラウンドが隣接されている。突然の訪問にも、ゾルトの紹介があったため会長は笑顔で迎えてくれた。
バラシュはこう説明する。「ガブリエラはルーマニアが誇る世界的な名ランナーです。まだ若いが、10年近くも1500,3000,5000mで世界のトップランナーで大活躍、毎年なんらかのタイトルを獲得しています。ルーマニア史上最強の中長距離ランナーでしょう。まだまだガブリエラは伸びると思います。次回五輪でも活躍するのを期待しています。16才で難関のナショナルチームに加えたのも、それだけ彼女の稀有な才能があったからです。その判断は間違っていなかった。革命後、予算は以前より半分以下に削られた状況ですが、私の仕事は伝統ある陸上競技を高いレヴェルで継続して行くことです。若い選手発掘、持てる才能を十分に発揮できる資金的なバックアップ態勢、環境を作ることが私の義務です。その結果、ガブリエラのような選手が、私の就任後から育ったことは大変な喜びですね」
新築の豪邸で疲れを癒すシーズンオフ
ルーマニア陸上関係者は、口を揃えてバラシュ会長の陸上に捧げるパッション、努力を称える。夫の兄弟がオーストラリアに移住したため、チャウシェスク独裁政権では出国は許されず、陸連要職につくことは不可能だった。会長就任10年、「バラシュ効果」は、あらゆる局面で表れている。若手男女の育成に献身的な努力を惜しまず。全国を飛び歩いてかき集められる寄付金のみで、物置同然だった事務所から近代的な建物に建て替えた。また、ジュニアレベルの強化に努力、男女選手に将来性ある選手が多い。ルーマニアの冬は厳しく長いため、最近ではトップ選手は南アで合宿するケースが多い。その経費の総てをバラッシュ会長の努力で集める寄付金で賄っている。ザボーの合宿には、夫のジョルト・ジェンジェシー、トレーナー、時に男の練習パートナー3人が同行するという。サボーの練習相手は男だけ。今季のスタートは例年より数ヶ月も遅く開始する予定だ。
サボーはこう説明する。 |
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「昨シーズンは長く、非常に精神的な疲労が濃かったので、ブリュッセルGPを最後にシーズンオフに入りました。市内のアパートからこの新築した家(400平米、庭、地下のガレージ。隣はスポーツ大臣の家)に引っ越したのが9月です。シーズン中は、自分の家にいるよりホテル住まいのほうが多いぐらいですから、今のうち我が家で楽しまなくては。母親が手術したので、今までしてやることができなかった母親の世話をしています。こんなにゆっくりしたことは、ここ10年間なかったことです。例年なら、11月の終わりごろから室内競技の練習に入りますが、今季は室内競技に一切出場しません。多分、3月ごろ、97年ヨハネスブルグ・ワールドカップで気に入った、あそこから60km南西にある町ポチェフストロオム(高地1400m)で合宿する予定です。そのころになると、少しは次のシーズンを迎える気力が生まれてくるでしょう。今年の目標は、欧州選手権大会で1500,5000mのタイトルを獲得したいですね。現在の5000mの世界記録は大したものではありません。むしろ遅いと思っています。良いペースメーカーが見つかれば世界新記録は出せます。日常の練習では14分10秒に設定していますので、オサリバン、ラドクリフ、ワミらの数人の世界トップランナーと競えば14分10秒は簡単なことです。13分台に突入してもおかしくないと思います。ネックはスケジュールが過密で調整が難しいこと。他の女子選手が難関を示すかもしれませんが…」
ファンに激励されて5000m決勝に出場した
「昨季は波乱万丈でした。バーミンガムで3000m室内世界新記録8分32秒88を樹立、5000mとの2つの室内記録保持者になりました。ここまでは良かったんですが、室内世界選手権3000mで2位、4連勝が達成できず、6年間で初めてこの種目で敗戦しました。一時的には、ショックでした。負けても勝っても私は気持ちの切り替えが非常に早いほうです。長いことくよくよしません。たかがスポーツ、人生の総てではありません。エドモントン世界選手権1500mの初優勝は大変に嬉しかったのですが、その後が後味の悪いレースになってしまいました。5000mの3連勝も達成できず、5000m決勝レースは思い出すも嫌です。レース前に、“エゴロワが出場するなら私は出ない”と言ったのは、本当にボイコットする意志があったからです。パリのゴールデンリーグでエゴロワの尿検査でEPO陽性反応が検出、IAAFから一度は出場停止処分を受けたにもかかわらず、その後、血液検査による証拠がないとして大会中に処分を無効にしました。われわれは到底納得できません。私はエゴロワが出場を許可された時点で、出場を拒否して無言の訴えをしようとしていましたが、エドモントン市内を歩くと、多くの人たちが暖かい声援“We
love you !!””You must run!!”などと暖かい励ましを受けました。結局、私の意志で出場を決定しましたが、レース前から意欲、集中力は薄れていましたね。そんなことがあって非常に疲れた1年でした。(笑い)その後、3000,5000mでエゴロワに一度も勝っていません」
サボーの過激な発言は波紋を呼ぶ
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サボーの精神的な疲労の原因は他にもある。エドモントン世界選手権1500m決勝ポストレース記者会見で、5000m決勝について聞かれると「相手がロボット(エゴロワ)では勝てるチャンスがない」と過激なコメントの残した。IAAFの不手際、政治力がルールを超越した処置で後味の悪い結果を残した。サボーのマネージャー、ヨス・ヘルマンスは「他の薬ならなんらかの形で体内に入る可能性があるが、EPOは注入しなければ体内に入ることは不可能だ。UCI(世界自転車連盟)は、EPOを完全に実証、禁止しているが、IAAF,IOCは実証できないのはおかしい」とサボーを弁護する。また、サボーの感情的な発言は、エドモント以前にもしばしひと悶着を起こした。 |
この記者会見で、サボーに続いて2位でゴールしたヴィオレック・ベクレア・ケセリは、「ガブリエラ優勝おめでとう。私は2位でも満足です。しかし、これと私とガブリエラとの間に起きたことを許すこととは全く違うことです」と、よほどサボーの仕打ちが腹に据えたのだろう。改めて釘を刺した。サボー、ケセリの長年の対立は、「両雄立たず」感情的なわだかまりの深さを象徴している。そもそもことの起こりはサボーが仕掛けた。2000年2月4日、シュツツガルトで開催された室内競技大会で、サボーがケセリも同じ1500mに出場予定を知り「彼女が走るなら私は出ない」とわがままを言い出した。関係者は、レース目玉選手サボーの我がままを容認。当然、ケセリに金を払って出場取り消しことなきを得た。ここまでは良くあるスター選手のエゴ丸出しのトラブル。ところが、翌日サボーはブカレスト空港で、地元TV局のインタビューに答えて「ヴィオレックがレースに出なれなかったのは、彼女の顔が醜いからよ!」と打った。続けて、「ルーマニアでクリーンな選手は私一人だけ!過去の五輪メダリストはみんな薬漬けだった!」と大荒れ。彼女の言葉がその夜全国にオンエアー、次の日、慌てたサボーは言葉を選んで釈明したがあとの祭り。怒ったケセリは裁判所にサボーを告訴した。ことの騒ぎに友人知人、バラシュ会長まで巻き込んで、陸上スター選手の調停に奔走したが未だに解決がつかないままだ。ゾルトにこのことを聞くと、「よく知らないよ」と、軽く逃げられた。この件に関してサボ―に直接に質問しなければならないが、取材協力を得られなくなる可能性もあるので意図的に後回しにした。
ブカレスト市内散歩でサボーが話す
次の日、からりと晴れ上がった青空、陽光が眩しい。底冷えのする大陸的な冬の朝だ。ブルッとする。ゾルトが運転するシルバーメタリックのアウデイクワトロを駆って、サボー夫妻がブカレスト市内の観光の案内役を引き受けてくれた。週末のため市内は静かだ。野良犬が群れをなしているのが目に付く。独裁者は巨大な建造物が大好きなのは歴史が証明する。チャウシェスクも負けずに、感心するほどバカでかい建物を建てた。ゾルトは、ひとつで世界最大の建物はアメリカの国防省(ペンタゴン)、2番目が目の前にそびえ立つ独裁者の遺産だと説明が入った。市内に車を止めて、元ルーマニア王宮殿、国会、革命記念碑、オーソドックス教会がある旧市内中央を歩く。市の北にある陸連事務所、国内各地から集められた伝統的な民家博物館なども歩いた。家の中で改まってインタビューするより歩きながら、車の中で話すほうがいい。
サボーは話を続ける。
「私は田舎育ちで、両親、一人の兄、親戚関係者もスポーツとはまったく無関係です。16才でバイレフェリックスにあるナショナルチーム合宿に参加したのですが、現役、過去の世界的に活躍した選手のことは何も知りませんでした。チャウシェスク時代のTV番組は、スポーツ放映はほんの少し。大多数の時間は政治のPRか政治的な番組だけでした。バラシュのような人はもちろんのこと、80年代に活躍したマリシカ・プイカ(ロス五輪3000m1位)、ドイナ・メリンテイ(ロス五輪800m1位)、パウラ・イヴァン(ソウル五輪1500m1位)らの名前すら知りません。こうした合宿所は国内に6個所ぐらい優れた設備が完備しています。ナショナルチームに入れば、総て国が経費を出してくれます。2000mの高地合宿所もあるのですが、寒くて6月まで使えません。ですからルーマニア選手は外国に行きます。この年、モロッコのイフレンで高地合宿をしましたが、私はその効果がそんなにあると思いません。ですから私は高地練習を全くしません。クロカンが大好きですが、なんど世界選手権大会に出場しても、ジュニアのころから勝ったことがありません。不整地を走るパワフルな筋力がないからです。ですから、96年南アのステランボッシュで開催された世界選手権が最後で、クロカンには出場をしません。シーズン中ブカレストに帰れば、練習はブカレスト飛行場近く「緑のパダラダイス」と呼ばれる森の中。その側に小さな家を持っていますので練習には最適、でも週末にブカレストに帰ってきます。この森は春と秋は特に美しく、誰にも邪魔にされず練習に集中できますが、大きな鹿、イノシシ、熊、ウサギなどの動物が突然飛び出してくることがたまにあります。友人リイデア・シモンも一緒に15km程度なら走る時がありますが、私にはとてもマラソンを走る気力も体力もありません。リイデイアはさらに2時間以上も休みなく走るんです。マラソンは見た目には美しいが、女性にはあまりにも過酷で女性がするレースではないと思います。とてもやろうとは思いませんね。レースなら10,000mも嫌です。私が最も好きなのは、スピード、スタミナ共に最高の自分の力を発揮できる3000mです。1500mと言うレースは作戦的で、最後のコーナーで勝負を掛けたりするし、パワーの勝負になり小柄な私にはきつい種目です。5000mはスローペース展開で長い距離を走るだけです」
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バラッシュに追いつけ追い越せ
「今までパーフェクトなレースなんて一度もありません。アトランタ五輪では、五輪準備が不十分。レース前気分が悪くなって吐いたりしましたが、あれが精一杯でしょうね。良いレースをしたと思うのは、98年モナコGPでマスタコーバを1500mで破った時ぐらいなものでしょうか」
(ゾルトが口を挟んで)“五輪準備不足はオレの完全なミス。五輪の知識、経験もなく、時差に対する処置、あの独特の雰囲気などかなり甘く考えていたのが原因です。五輪なんて、GPと同じ程度にしか思っていなかったのです。しかし、ガビーはあの難しい1500mを20才で2位になったのですから大したものです。シドニーはアトランタの経験を生かして、今度は十分な準備ができました”
「しかし、シドニー1500m決勝は、選手全員牽制してスローペースで失敗しました。勝てると思った油断があったのかもしれませんが、最後のコーナーで大きく振られました。ロスが大きすぎました。まさか内側からヌリア・メラ-ベニダ出てくるとは夢にも思いませんでしたね。長いキャリアの中で、本当に完璧なレースと言うのは少ないと思います。今まで沢山のタイトルを取りましたが、まだ身体も精神的にもいろんなチャレンジへの意欲を失っていません。今後は、五輪優勝2回のヨランダ・バラシュの実績に“追いつけ追い越せ!”を目標にしています。もちろん、難関の二つ、今年の欧州選手権優勝、アテネ五輪優勝をクリアーしなければなりません。」
欧州の冬は昼が短い。ブカレスト見学も終わりに近づいてきた。車の後席にサボーと一緒に埋まりながら、最後の質問の機会がやってきた。サボーにケセリとの対立、過激な発言の真意を質問した。サボーはストレートな質問を予期していなかったのだろう。あきらかに動揺の表情を見せた。それまで室内の明るいムードが一転した。急に歯切れが悪くなった。それでもやっと重い口を開いて「ウ〜ン、あの問題は、私のほうは済んだと思っていますが、向こうがどう思っているかは知りませんね・・・。時間が解決してくれるでしょうか?なるようにしかならないでしょう」と言葉を濁した。
続きの言葉を期待したが出ない。車が石畳の上を走る騒音で室内の重い空気を和らげた。やがて、車はわたしの滞在ホテルの前に横付けされた。
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