【シドニーからエドモントンへ、新シーズンを迎えるキューバ】
シドニーからエドモントンヘ、新シーズンを迎えるキューバ

パリからハヴァナ行き直行便は、以外にも10時間を少し越えた。ハヴァナ到着ロビーは冷房が良く効いている。
グループ観光客に混じって、入管チェックの列に加わる。無駄口を大声で叩くものもいない。一昔前、東欧諸国の暗い入管の雰囲気を思い出す。それでも簡単にことがスムースに進んでいる。しばらくしてぼくの番がきた。旅券を差し出す。数年前グアダロップ(カリブ海の小さな島、フランスの海外県)で旅券盗難にあった。数日後、幸いにも旅券が発見された。その時以来、水に浸かったぼくの旅券は少し古びて見える。係員は短い頭髪の軍服。旅券の写真とぼくの顔をにこりともしないで、探るような鋭い眼で交互に見比べる。悪戯ッ気を起してウインクしたが、かれの表情はこれっぽしも変化なし。なにやら旅券を小さな機械に当てていたが、キッとした表情で睨まれ、あらぬ方向を指して “待っていろ!“の一言だった。キューバ到着早々嫌な予感、これから1週間滞在が思いやられた。

一瞬、50年代にタイムスリップした


シドニーからエドモントンへ、
新シーズンを迎えたキューバ

どこの国であろうと、スポーツと政治が無縁であるはずがない。少し固い話が続くが、これを書かずにして、キューバ(スペイン語読みはクーバ)を理解することができないので我慢して欲しい。80年代後半から連鎖反応を起こして、東欧諸国の共産、社会主義政策があっけなく崩壊した。それまで一方的な東欧諸国の経済援助で支えられてきたキューバ・カストロ政権も、経済的な自立政策を余儀なくされてきた。キューバはカリブ海、西インド諸島最大の島だが資源に恵まれず、輸出できるものは砂糖、タバコぐらいしかない。 人口1100万人。

しかし、カリブの”紺碧の空と海”をキャッチフレーズに、93年ごろから徐々に観光誘致路線に変更、外貨獲得政策に活路を強かに見出してきた。それまで西側から簡単に観光客が気軽にのこのこ出かけるような国ではなかった。極端に言えば、西側との交流は少なく鎖国状態が続いていた。それでも日本とキューバのアマ野球、ヴォレーボール、柔道、陸上競技など、比較的に交流があったが一方通行。要するに、われわれがキューバに行って、簡単に好きなように取材できるお国柄ではなかった。キューバトップ陸上選手の活躍は目の辺りにしても、国内事情はベールに包まれていた。キューバにやってくる観光客は、“鴨がネギ”を背負ってくる大切なお客さん。そんな現状が、入管で少し待たされたが、「日本鴨」の入国を認めざるを得なかったのだろう。荷物も無事に到着、税関も問題なく簡単に通過した。歓迎ロビーに1歩出ると、ジーンズの下からむっとする暑い湿りが伝わってきた。見知らぬ国の夜間到着は、勝手のわからないのはなんとなく嫌なもの。観光案内所も見当たらない。今回だけは、前以てホテルは決めていたものの、地理が全く不案内。夜は10時を過ぎていた。そこでタクシーの呼び込みに求められるまま応じた。ホテル名を告げると20km先、料金は18ドルだと言う。高いか安いかも見当がつかないが、とにかく車を出させた。街灯もない暗い交通量の少ない道路だ。暗い十字路で一時停車すると、突然、ヘッドライトに当たって目の前を巨大な50年代のアメ車が走りすぎた!一瞬、タイムスリップした錯覚を起した。そんな驚きと空想を楽しんでいると、いつのまにかホテルに到着した。

赤道に近い暑い国の朝は早い。下見を兼ねてホテル周辺をジョギング。その後、キューバ通信社勤務の若い知人、ハヴィエルの指示に従って、キューバ・スポーツ・インステイチュード(INDER)の報道担当者オルガ・ペドロを訪ねる。巨大なドーム式の室内競技場のある「スポーツ・コンプレックス」(多目的なスポーツ施設が整っている場所)までタクシーを飛ばす。入り口でセキュリテイに止められ、すったもんだの挙句、やっと納得させて入れた。案内された2階の大きな広間は、薄汚れたポスターが数枚掛かっている。恐ろしく殺風景だ。若い女の子が埃をたてながら掃除を始めた。秘書らしき感じの良い人が迎えてくれた。ここでも言葉の判らない悲しさ、ジェスチャーで用件を説明する。オルガはハヴィエルが約束を取ったにもかかわらず、用事で外出したために明日またきてくれと言う。そんなことをしていれば、いつ取材が始まるのか見当がつかない。結局、オルガのボスに一筆を貰うことで待機することにした。この日は湿度が80%とか、座っているだけで汗が吹き出る。2時間後、やっとキュ―バ陸上競技トップ選手の練習、インタビュー、第51回バリエントス国際大会取材許可、また、キューバ陸上競技コミショナー、ペレツ・キャバレロ、市内郊外のパンアメリカスタジアムの責任者、ペドロにも、ぼくの意図を電話連絡で一報してくれた。このぐらいの用意周到がなければなにが起こるか心配だ。
午後2時過ぎ、通信社勤務のハヴィエルと再会。かれのアパートで明日からの仕事についての打ち合わせた。幸いにも、ハヴィエラは選手と非常に親しい。次ぎ日、シドニー五輪110m優勝者、アニー・ガルシア(25才)とかれの家でインタビューの約束を取る。地図で滞在ホテルを確認すると、少なくとも町中まで10km以上の距離がある。ハヴィエラの薦めで、同じ高層アパート16階のおばさんが経営する民宿を予約した。明日から動きが楽になりそうだ。ホテルまで帰りのタクシー料金は、わずか6ドル。今朝は見事に3ドル以上はごまかされた。

五輪優勝者は高給官吏者並の待遇

猛烈な蚊の大群に襲われて、一晩中一睡もできなかった。チェックアウトを素早く済ませて、ハヴェエラの高層ビルに移動。外国人専用タクシーを頼んで、アニー・ガルシアの約束9時にハヴェイラと一緒に向かう。キューバの公共乗り物便が非常に悪い事情がある。朝のインタビュー後、ガルシアをトップ選手の練習場、パンナムスタジアムに一緒に行く約束をした。この高層高級アパートは、官僚、ジャ−ナリスト、金メダリストか、それに類似したスポーツ貢献者専用のものらしい。キューバは伝統的に110mhが得意な種目。70年代に活躍76、80年五輪連続して2位になったA・カサナスがいるが、ガルシアはキューバ110mh初の五輪優勝者だ。

「シドニーで優勝後は、ぼくの生活も大きく変わった。町を歩けば“チャンピオン”と見知らぬ人達から声を掛けられる。まだ車は持っていないが、このアパートに入居することも出来た。アトランタ五輪は、五輪前に故障でベストの状態ではなかったし、大きな大会での経験も少なかったので準決勝度止まりが順当だったでしょうね。あれから4年間の努力、セヴィリアで2位になった実績が自信になっている。そして、五輪で優勝するという最高の形で結果を残した。今回も110mhはアメリカが伝統的に強い国、ジョンソン、クレアー、トランメルらの3人が強敵だった。特に、アレン・ジョンソンは五輪2連勝を狙っていた。しかし、わたしは昨年ローザンヌ大会でジョンソンに負けたが、自己タイ記録の13秒07で走り、調整は最高の形で五輪を迎えた。準決勝で13秒16で気持ち良く走れ、勝てる感触を掴んだね。ジョンソンの準決勝は今一つ切れがなかったが、新人のトランメルが良いと見えた。決勝レース最初のハードルの突っ込みも良かった。最後の2台目のハードルを残して、少しリードした。勝ったのは知っていたが、ゴールした瞬間、頭の中は真っ白。なにがなんだかわけがわからなかった。少し経ってから、家族、友達、キューバのことが頭の中で入り混じった。トランメルが表彰式で近寄ってきて“おめでとう“と声を掛けてきた。キュ―バ110mhの念願がようやくかなった。あれだけの感激は一生忘れない。次ぎは今年のエドモントン世界選手権優勝、13秒を切る目標も残されている。6月初めに欧州転戦を計画、できれば4レース出場、7月に最高の調整に持って行きたい。問題は、右腰から足にかけて痛みだ。今年日本から招待されたが、痛みが退かないので辞退した。日本で針に掛かったら簡単に直せたかもしれないね(笑う)」

ガルシアと妻バーバラ

ガルシアは島の南東サンチアゴ・ド・キュ―バ市の出身。アニーは陸上競技一家に育った。母親は7種目の選手だったが、17才でアニーを妊娠したため競技を中止。現在トップ選手のコーチをしている。父親は400mh選手。70年51秒を記録した。ところが、アニーは子供のころから持病のアストマ、病気がちの子供。母親に薦められて健康のために走り高跳びを始めたのが、陸上競技との関わりだった。 エレベーターの中で、キューバ男子ヴァレーボールの左腕エースアタッカー、ガッチリした体躯のデニスと一緒。5月の終り、ワールドリーグ戦でハヴァナを訪れた日本、五輪優勝ユーゴチームも、デニスの猛攻になすべき手段がなかった。デニスは気持ち良くガルシアと一緒に写真に収まった。

エドワーズが引退すれば、われわれにも金メダルのチャンスがある

1959年フィデル・カストロを指導者とする革命が起こり、61年には社会主義政権を宣告した。急転した国情でも東京五輪に3人の陸上選手を派遣している。71年、コロンビアのカリ市で開催されたパンアメリカ大会で、当時ジュニアのペドロ・ペレツ(現陸上競技の医者)が17m40を飛びジュニア、セニア世界新記録を樹立。キューバお家芸のひとつ三段跳びが確立した。現役17mジャンパーは5人、シドニー五輪2位のジョエル・ガルシア(27才、最高記録17.66m)、アトランタ五輪3位、97年世界選手権優勝、シドニー4位、ジョエルビ・ケサダ(27才、17.85m)、アリエサー・ウルチス(26才、17.83m)現室内世界記録保持者、国内選手権を制したミカエル・カルヴォ(23才、17.30m)、レネルイス・ヘルナンデス(23才、17.40m)、96年ジュニア世界選手権優勝らの、蒼々たるメンバーが揃っている。ナショナルコーチ、シグフレド・バンデラス(元棒高跳びの選手)が、付きっ切りで熱心な指導をしていた。最近、女子三段跳びでも頭角を表してきた。幅跳び、三段跳びのキューバ記録保持者モンタルネは、99年5月からスペイン国籍で出場。後続に、ジャミレ・アルダマ(29才)が、シドニー五輪で4位に入賞した。スコットランド人と結婚、住むのはハヴァナ最高と言う。妊娠3ヶ月の男の子。のんきに「今年1年は競技生活を中止」と笑っていた。才能豊かなジュニア女子選手の後続が続いている。ジョエル・ガルシアは「キューバ三段跳びの伝統は、厳しい国内競争があるからです。キューバ代表選考会が、時には世界選手権、五輪より難しい。一発勝負で選考しないので、コンスタントな記録を出さなければならない。少なくとも、現在17mジャンパーが5人いる。その後続が何人いるかわからない。ぼくは結婚しているので、多くのことを犠牲にしなければ、トップ選手競技生活を続けて行くのは不可能です。家族はユヴェンド島に置いている。また、6月の始めから、欧州転戦で少なくとも1ヶ月以上は国を留守にするでしょう。どこの大会に出場するかは、まだ知らされていないし、選手が大会を選択することは不可能です。キューバの選手はどこで、誰と、いつ試合をするのかはあまり問題にされていない。(シュミットが40年前に17mを越えてから、進歩が遅いことを訊ねる)あの当時選手のドーピングチェックはなかったはず。そんなに記録は伸びるものではないでしょう(笑う)。
最近では、イタリア、イングランド選手がアメリカにとって変わった。特に、エドワーズは一体いつまで現役を続けるつもりなのですかね?早く引退して欲しい。(笑い)キッと、来年は必ず引退すると思う。そう願いたいと思っているのはぼくだけではないはず。(笑い)かれが引退すれば、われわれにも世界選手権、五輪金メダルのチャンスが転がり込んでくるでしょうから。エドワードの武器は、助走の素晴らしいスピードヲ生かしたジャンプすることでしょう。ぼくは銀メダルに満足していますが、残念なことに記録は対したことがなかった。最近18m台が出ないのも、ドーピングコントロールが厳しく管理されているからでしょうね。われわれ選手から見ていると、ある程度判るような気もする。急にある選手がメチャクチャに今までと違ったジャンプをするようになるからです。われわれキューバの強敵は、最近エドワーズの影響で伸びてきた英国選手、カプスーチン、フレデリックス、イタリアの選手ですかね。僕は15歳から、ハヴァナのユースナショナルチームに入り、現在と同じコーチから8年間指導を受けてきた。こうしたエイジ教育を一貫して継続するところがキュ―バの強みでしょう。また、スポーツ心理学も発達しており、メンタル官吏は重要な要素です。ここでは、いつでもセラピーを受けることができます。今後助走のスピ―度を生かしたジャンパーが出現すれば、世界記録を破ることは難しくないでしょう」
ガルシア、ケサダは良き同僚、ライヴァルでもある。カルヴォもこの2人と性格も同じような温厚なタイプで、感情を激しく外に現わさない。しかし、ウルテイスは、変わっている男らしい。97年、ドイツのジンゲンフィルドで室内世界記録を出してから、才能豊かな選手だがその後目だった伸びがない。かれは競技場で働いている人達に、練習を中断して重いものを運ぶ手を貸していた。 第51回目を迎えるバリエンテス大会男子三段跳びは、カルヴォが17.30mを飛んで優勝。まだまだ仕上がりは遅い。6月3日、ジャンパーは連れたって、欧州点線の拠点地ドイツのイエナに飛び立った。

全身火傷から奇跡な生還、伝説的な女性ランナー、フィデリア・キロイト

キュ―バ史上最高の陸上競技選手は、76年五輪400、800m両種目で優勝した“競走馬”のニックネ―ムを付けられた伝説的な英雄ロベルト・ホアントレアだろう。そもそもこの企画は、リスボンで開かれた室内世界選手権大会でかれに話しを持ちかけてからだ。かれに匹敵する国民的アイドルは、アナ・フィデリア・キロイトである。国内では“フィデリア”と親しみと尊敬を込めて呼ばれる。今年3月2日、キューバの誇る世界的なスポーツスター3人、フィデリア、五輪ボクシング3連続優勝したフェリックス・サヴォン、ヴォレーボールのスーパースター、ミラヤ・ルイスらが公式に引退した。かれらの功績を称えて、カストロ首相が直接に記念品を手渡して労をねぎらった。
半世紀近くメインテナンスを怠ったハヴァナ市のほとんどの建物は、強い潮風に侵食されぼろぼろに破壊寸前の状態、まるで爆撃された都市を想像させる。ハヴァナ市の海岸沿いに町が西に伸びる。中心から離れると、大使館、外交官の高級住宅地がある。そこに2年前、カストロ首相から、キロイトの長年の功績を称えて与えられたしょうしゃなガレージ付きの大きな家がある。4ヶ月前長男出産、われわれが訪れた朝、アエロビックを始めたと言いながらタイツ姿で現れた。サッと、ハヴィエラが花束を差し出す。

「20年間も走っていると精神的に疲れますね。今は国会議員(97年から)と2人(長女20ヶ月、長男4ヶ月)の子育てが総てです。わたしは200、400、800、1500mなども走り、5種目のキューバ記録を作ったこともあります。80年代始めは短い距離だった。この間15年間コーチをしてくれたラスビアトの薦めで、多分、かれが800mの方に素質を見たのでしょうね。80年代後半、当時の東ドイツのヴォダル、ヴァッチェルの二人の作戦でいつもブロックされた意地悪な経験がある。前に出してくれないから勝てない。この年、バルセロナで開催されたワールドカップ、この大会では一大陸から一種目一人に限定されているので、思いきり好きなように走って勝った。1分54秒44は歴代3位の記録。あのころはレースに負ける(87〜90年まで800mファイナル39連勝)気がしなかった。私の長いキャリアで、五輪は2度作戦的に失敗していますね。バルセロナでもポケットされて気が付くのが遅かった。アトランタでも注意していたが、120mを残した地点でポケットされたのがわかり、外からスパートしたがすでに遅く、マスタコーバに負けてしまった。五輪は運がなかったですね。性格的に、作戦的な走りは向いていないんです。若い時は、前に付いて行き、最後の400mで前を追い抜くだけの簡単な作戦だけだった。それが小気味良く功を奏していたが、これでは世界記録は破れない。しかし、事故を起した93年以降、わたしの走り方も違ってきたし、積極的になった。世界記録を破る実力を十分に持ちながら、フェアーなチャンスは1度も与えられなかったのは残念です。97年スチュットガルト、レースデイレクターに、“400mラップを54秒で走るラビット”を頼むと“クレイジーだよ!“”と言って相手にされなかったことがある。ある日、クラトフヴィロヴァのコーチが私の600mの記録を聞いてきた。1分20秒19で練習中に一人で走ったのを聞いて、世界新記録が出せると頷いていた。ドーピング検査も徹底、妊娠中にもやってきた。あのころは最高の調子だったのにね。強くなるほど反感を買うこともあります。ムトラがライヴァル関係になったのは93年から。素晴らしい素質の持ち主の選手だが、肘を使ったり、トリッキーなアンフェアーなレースを97年のブリュッセル、ケルンで2度仕掛けてきた。観衆からも彼女を非難するブーイングが起きた。それでも1分54秒82で走った。このことは誰にも話したことはない。


キロイトとコーディネーターのハヴィエラ

また、97年7月のDNガラン、この大会の新記録を出せば10万ドル相当のダイヤモンドが賞金。マスタコーヴァ、ムトラ、ホルムスらが一緒だった。あのころはレースに負ける気がしなかったし、新記録を出せる自信があった。500mを過ぎるころ、誰か判らないが、私を倒そうと足を引っ掛けてきた。辛うじて右手を付いて転倒を避けたが、3位に終った。余りの仕打ちに、泣き、怒って、悔しくて母親に電話した。長いキャリアですからレースに関するエピソードは沢山あります。私が最も選手、人間として誇れるのは、93年1月に全身を38%火傷する事故(旧式な灯油ストーヴに点火する時、少量のアルコールを使用する。それを誤って、アルコールに飛び火した事故を起した。この時彼女は妊娠7ヶ月。ショックのため早産、ハヴィエンナと名づけた女の子は20日後死亡)を起してから、多くの人達の心強い励ましを受けて、その年11月に開催された中央アメリカ選手権で劇的なカムバックを果たした。まだ、火傷したところは腕を振ると皮膚が引っ張って思うように出来ない状態だった。あのレースでまた走れる自信が生まれた。フィデル(カストロ首相の名前、または“コマンダンテ”と呼ばれる)は、事故のあったその日に病院まで見舞いに来てくれた。この時フィデルと“レース復帰”の約束をした。事故から4ヶ月後には、病院内で階段を使って練習を再開。94年は手術などでレース出場は無理だったが、95年の世界選手権優勝は、五輪優勝こそ逃がしたが、それ以上な劇的な人生最高の素晴らしい勝利の瞬間でしたね。事故のあと、わたしの生き方“やればできる”の模範を示し、世界の人々に強い感動、インスピレーションを与え、生きることの素晴らしさを伝えることが出来たと思います」
シドニー五輪では、女子800m決勝でゼリア・カラタユード(21才)が、1分58秒66で6位。

紺碧なカリブの空と海はどこにも見えない、雨季が始まった

91年、キューバの国威を掛けてパンアメリカ大会を開催。その時に建設したメインスタジアムは、現在キューバナショナルチーム選手が使用中。ところが、これが市内から遠い交通の不便な辺境にある。建設から10年、すでにこの建物、施設は数10年経っているような印象を与える。メインテナンスが悪い。選手合宿場もスタンドの下にある。現在男女合わせて150人いるとか。地方の選手をナショナルチームに入れて、1箇所に集めて練習するシステムはエチオピアに良く似ている。このスタジアムに行くと、中には硬い表情で見慣れない男に不振の目を向けてきたが、それも最初のころだけ。直ぐに、どこに入るのも顔パスになった。キューバ選手権兼第51回バリエントス国際大会と呼ばれるが、五万人収容できるスタジアムに選手と関係者だけの寂しい観客数。
蒸し暑い、日本の雨季だ。毎日、激しいスコールがやってくる。

パウエル現役復帰は大歓迎、9mの壁を越えるのが夢だ

ペドロサはハヴァナ出身、練習に世界選手権大会で貰ったブルーのベンツを駆ってくる。ニコリともしないで、練習中に流れるサラサの音楽で、黙々とスコールの中でも単独練習。シドニーで7位になったルイス・メリス(21才)らとは別行動。ハヴィエラからも聞かされていたが、ペドロサはキューバ国内でも非常にインタビューを採ることが難しい男らしい。今回もインタビューを拒否はしないが、のらりくらりとかわして時間を延ばす。数日後やっと捕まえたのでのっけからきつい質問を浴びせた。「(なぜ逃げ回るのかの質問に)ぼくは、過去にないことを誇張されて報道された経験から、欧州の報道に不信感がなかなか消えない。あなた個人に悪い感情を持っているわけではないが…。そこら辺が難しいのです。( 陸上専門誌のインタビューを伝えると、その後はかなり雄弁になった。練習中には、サラサにあわせてちょっと踊ったり、同僚と笑顔で楽しそうの印象を受けたことを伝えると珍しく笑い) 友達と一緒の時とか、練習中、試合の時は違いますよ。ぼくだって常に集中しているわけではないですからね。バカもしまうよ。コンシーズを迎えての練習は非常にスムースに進んでいる。念願の五輪でも優勝したし、室内世界選手権5連勝、5ヶ月前に長男(イヴァン・ペドロサジュニア―)がうまれた。良いことが重なってきた。五輪最後のジャンプはきつかった。あれで優勝が決まったんだから、五輪ではなにが起きるか全く予測が出来ないね。怖いよ。タウリマが地元の利を生かして、回を重ねるごとに調子が上がり5回目に8.49mを飛んだ時は凄いプレッシャーが掛かった。でも、案外クールな自分があったね。それと絶対に勝つことしか念頭になかった。あそこでビビっていたら負けていただろう。1児の父親になったが、かれがどのような将来を送るかわからないが、温かく見守ってやりたい。今年からは今までと違ったシーズンを迎える。まず、8.71mの自己記録の更新、このためには試合出場回数を少なくすること。そして、非常に難しいだろうが、決して不可能なことではない。究極的な目標である9mを超す最初のジャンパーになりたい。カール・ルイスも不可能な距離だった。しかし、かれと2度戦っているが、かれは最もトータルな才能を持った選手だ。もちろん、今年からパウエルがカムバックするらしいが、われわれは仲の良い友達。大歓迎ですね。今シーズン、どこかで一緒にジャンプできることを楽しみにしています」
ミラン・マトスコーチは「あるコーチが、体が小さい長距離選手を連れてきた。それがイヴァン。走り幅跳びが大好きなのでそのまま続けさせた」
余談、ある日市内のギャラリーである男と話す。しばらく話していると、「実はぼくはペドロサと遊び友達。ペドロサがシドニーで優勝した時、すっかり忘れていたかれを思い出した。11才の時、かれは真剣に“俺は五輪で優勝する”と力んいたのを思い出した」

わたしの誇りは、五輪優勝、世界記録でもなく、世界のトップ選手としての活躍だ

キューバの人達は、こっちがヒヤヒヤする時間帯、早朝から深夜まで平気で電話を掛ける。ハヴィエルが何度もソトマヨルに電話攻勢したが、捕まえるのがなかなか難しい。かれは滅多にパンアメリカスタジアムに練習は来ないが、キューバ選手権に出場するらしい。ぼくとソトマヨルは方々の大会で顔を合わせているため、お互いに挨拶だけは交わしているので逢えばなんとかなると考えていた。その間にも、シドニーで女子400mh同メダリスト、パーニヤ(24才、53秒68)は、「2ヶ月前に故障。プリワロワが故障して世界選手権に出れないので、勝つチャンスがわたしにもあるでしょう」女子走り高跳びで93年世界選手権優勝したキンテロ(28才、2.00m)は、「出産で2年間競技活動を中止。昨年から少しずつカムバックを始めた」シドニー女子槍投げ同メダリスト、メネンデス(21才、67.82m)は、「まだ力で投げている。重点的なウエイトトレーニングを終えたばかり。これから欧州を転戦しながら、技術的な調整をして行く」らやと、コメントを拾ってきた。そしてコーチ陣の取材で忙しかった。
そうこうしている内に、最後のインタビュー“キューバの至宝”が赤いベンツに乗って長男と現れた。お互いに目が合えばいつものように挨拶を交わした。
「あんただとは思いがけなかった。長い間待たせて申しわけない。なにしろいろんなことで忙しくて時間調整が難しかった。調子はボチボチ、毎年こんなモン。今の調子ならここで2.25mぐらいを飛べば上出来。世界選手権までは欧州で7〜8試合出場して調整する。この年になってくると、身体に疲れは感じないが、精神的な疲労、いわゆる練習、試合に燃えるような闘志、集中力が薄れてくるからだ。そもそもフレッシュなモチーベーションを、高いレヴェルでキープすることが難しい。わたしは78年から陸上を本格的にやりだしたから、かれこれいまだに現役でやっているのは他にいないね。ここまで来ると引退は時間の問題だが、1年ごとにシーズンを迎え、身体に聞きながらやっているので長い将来のことは考えられない。昨年だって、シドニー五輪後は引退すると言ったが、今年になると、まだフィールドに出るとエクストラ・エネルギーがあるのを感じた。こんな状態でここ4年ぐらいはやってきたね。だから試合でも、別のアポロ―チが可能だ。ガチガチに勝負にこだわることではなく、エンジョイ、楽しみながら競技をしている。16才でワールドクラスの仲間入りしてから、順調に記録が毎年伸びていった。総てのタイトル、世界記録を何度も塗り替えてきたが、わたしの長いキャリアの中で最も誇りに思うのは、結果ではない。忍耐と努力で世界のトップクラスの選手として現役生活を継続していることですね。ある競技者は、たったの1回のジャンプ、1回の競技会、五輪1回で優勝したとしても、そのまま直ぐに消えて行く人が多い。もちろん、長いキャリアで、良い時も悪い時もあるだろうが、コンスタントにそれなりの成績を残してきた。これがどれだけ難しいことか、ぼくは良く回りを見渡せば良く知ることが出きる。99年パンアメリカ大会でコカイン容疑で出場停止を食った。ひとつ言っておくが、キューバスポーツ界でもドーピングは深刻な問題で、国内の処罰は國際より厳しい採決を下されるのです。コカインドーピンが発表された時は、子供のように泣いた。コカインの数値が高く、あれではまともに立っていられないほどの強さ。そして、コカインが体に残るのは3日間。その期間に帰国して直ぐにチェックを受けたがコカインが体内に残っていた証拠が見つからなかったのです。それでもなんとかシドニー五輪出場の夢だけは捨てないで練習を続けてきた。時にはやる気をなくするときもあったが、練習だけは続けてきたので、身体は出来ていた。しかし、解禁されてから1ヶ月半の短期間では、完璧な技術的な調整が難しかった。エドモントン優勝記録は、2.36mを一発で飛ぶことでしょうね。欧州かエドモントでまた逢いましょう」

気持ち良く、ソトマヨル セニアとジュニアが一緒のフレームに仲良く納まった。
ギレルモ・ド・ラ・トーレコーチは「ソトは十分に世界のトップクラスと互角に戦える力を持っている。かれの後続が今ひとつ伸びないのが悩みの種」と言う。しかし、年配のコーチ陣が驚く真剣な態度で選手を叱咤激励、技術指導、選手を率先して引っ張っている。世界トップクラス、ジュニア選手が、一緒になって1年中合宿、目標に向かっての猛練習。今では数少ない“ステーツ・アマチュアシステムがキューバでは脈々と生きているのだ。

ソトマイヨールと彼の息子

“ラ・ハヴァナ・コロニアル”と呼ばれるかつての栄光を極めた一角がハヴァナにある。へミングウエイの名作“老人と海”の名作の舞台もここから近い。“チェ”の有名なポートレートも観光客に受けている。この近辺をブラブラ歩くと、コンペイ・セグンドのギター、ルーベン・ゴンザレズのピアノ、イブライム・フェレルがヴォーカルの奏でる“チャン チャン”がやはり良く似合う。レイ・クーダー製作の名作“ヴエナ・ヴィスタ・ソシアル・クラブ“の音楽を思い出した。

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